2012/01/28

女性の顔立ち、特に顎(えら)について

僕は、歌手のアランやモデルの佐々木希に、あまり女としての魅力を感じないのだが、この三人の顔立ちには共通点があるように思う。顎(えら)があまりがっしりしていないのである。

概して現代人は昔の人と比べて、あまり硬いものを食べなくなったため、顎が発達していないという説がある。そうした条件が重なって、時代とともに美人観も変化してきた可能性がある。

オードリー・ヘップバーンは自分の顎の形にコンプレックスを持っていたという。また長谷川京子は、ある時期から顎のラインがスマートに見えるようになったため、整形したのではないかと一部で噂されている。

女性タレントのみなさんに言いたい。気にするなと。少なくとも僕は、オードリー・ヘップバーンの顎のどこが格好悪いのか分からないし、長谷川京子の場合は、本当に整形したのかどうか知らないが、初期のがっしりした顎の方が好きだった。

その点、緒川たまきはすばらしい。誰がどう見てもがっしりしたあの顎を、変えようともしなければ、隠しもしないところは本当に魅力的だ。僕の個人的な好みを敢えて言うならば、緒川たまきに象徴されるところの、美しさと逞しさが入れ子構造になっているような女性の顔立ち(何だそりゃ)を高く評価するものである。

ただしこれは、あくまでもえらについての話であって、しゃくれについての考察は次回に譲りたい。男性のしゃくれなら、アントニオ猪木や高橋名人のようにトレードマークともなろうが、美貌を求める女性が自分のしゃくれを気にするならば、その気持ちは想像するに忍びない。だが、今日美貌ナンバーワンとも言われる女優の綾瀬はるかが、あの微妙なしゃくれを整形したら、きっと本来の魅力を失うであろう。ゆえに女性のしゃくれについての美的判断は慎重を要すると考える次第である。

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2012/01/10

あり得た! 真『めぞん一刻』論

『ノルウェイの森』と『めぞん一刻』『タッチ』に物語構造上の類似のあることは、僕も去年気付いたが、それを論文にするのは日本文学者の平野芳信先生に先を越されていた。

ちょっと悔しい。

でも、平野先生の書かれたこの本、読みたいな。

村上春樹と《最初の夫の死ぬ物語》(翰林書房)

これは平野先生の日本文学のシラバス。上記の本が教科書になっている。

また、ここでも平野先生の本が言及されている。

まあ、僕の着眼点は、まんざらでもなかったということか。でも、完全に先を越された。というか、相手の格が上すぎる。

ところで、今回たまたま見つけたこのページだが、

音無響子さんの矛盾~言語と論理

なんだこりゃっ!

言語学者の金沢欣二先生という方の文章だ。

カフカ、クザーヌス、ヴィトゲンシュタイン、夏目漱石、川田順造、ロートレアモン、レヴィ=ストロースだのといった名前がどんどん出てくるぞ。

ふ ざ け ん な 。

俺の響子さんを返せ!!

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2012/01/04

苦悩のち晴れ

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2012/01/03

韓国・北朝鮮専門「レインボー通商」の話

ネットで、

「北朝鮮を実際に見に行ったら、言われているほど酷くなかった」

とか書いている日本人もいるが、それは平壌だけ見ていたらそう見えるに違いない。

昔、千代田区にあった韓国・北朝鮮専門書店「レインボー通商」で友達がバイトしていたので、見に行ったことがあるが、機関銃を持った婦人のポスターや、炭鉱夫のなりをした幼児の絵があったりして、誰がどう見ても明らかにおかしかった。

レインボー通商の店長さんは、北朝鮮シンパでもなんでもないが、朝鮮語を解し、現地と直接取り引きされていると聞いた。

「仕入れたものは電話帳でも何でも売ったるでぇー!」

という、気概のある人だったが、その後千代田区の店を閉じて帰郷、現在はリアル店舗と並行して、充実したオンライン店舗を経営されているらしい。

買い物は、本気で問題に取り組むための資料にするもよし、嗤いのネタにするもよし、とにかくこういう書店の存在は貴重であると思う。

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2011/12/20

酩酊の歌

実存のとげとげした膜が私の頬に当たる
夕暮れ
愛が霧のように立ち昇る
私の中にあるものすべてが
軌道を描きながら反復する
空間の呼び声 時間の制約
愛は私を苦しめる

ずっと首都高速を走っていた カメラは回り続けていた 頭の中に鐘が鳴る 私は存在を忘却しようとしていた 非時系列的回想の中に 私は在って耐えている 何を? 愛の芽が萌さないように しっかり見張って立っている

音楽のなりそこね
円筒の中の記憶
に封じられた無数の過去
の中から解脱してゆく小人たち
開かれた祝宴の潰滅

私は歴史を見た 何を? 歴史を見た 何を? 私は歴史を見た

かえすがえすも残念なことに、私はまだここに在って、ここを立ち去ることができない
生命が兆しているために。
物理法則が停止していないために。

空が青となるのではなく
青が空となり
閉じていたものが開かれていく

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2011/12/16

DeNAとは?

ソーシャルゲーム新時代へ」というニュースを見ました。

ここで取り上げられているDeNA(株式会社ディー・エヌ・エー)っていう企業、どうなんでしょうか。

先日、こんなサイトがあると知らされました。

はいけい、にんげんの皆さま。-保健所の犬からのメッセージ-

〈世界ではペットショップで子犬の販売すら禁止している国もあるという流れの一方で、犬や猫のネットオークションがシステムとして機能している国が存在します。残念ながらそれは日本です。〉

〈怪盗ロワイヤルやペット育成ゲームなどで有名なモバゲーは、犬や猫のオークションサイトビッダーズを運営している会社(株式会社ディー・エヌ・エー)と同じです。この会社のサイトを拝見させて頂くと、日本起源の真のグローバル企業へと成長し「世界を切り拓く永久ベンチャー」の奇跡を起こしたいと言うようなことが書かれています。〉

僕は、「怪盗ロワイヤル」や、豚を育てて豚骨ラーメンにするゲームのCMをTVで見たとき、「何これ?」と思いました。人のものを盗んだり、生き物を殺して食べるために育てるゲームのどこが面白いのかと…。

「怪盗ロワイヤル」はメディアミックスしているところを見ると、ヒットしているのでしょう。僕はこのゲームをやったこともないし、漫画やTVドラマを見たこともありませんが、CMやゲーム概要を見る限り、これを面白いと思う人の心理が理解できません(養豚ゲームがモバゲーだったのかどうかは、今確認できず)。

ただ、これは僕が多少仏教的な倫理が入っているから、そう思ってしまうのかもしれないのであって、今の日本の法律や、世間一般の倫理にもとらなければ、そんなに目くじらを立てることはないかと最初は考えましたが、今やその手のゲームだけでなく、ペットオークションを運営して、現実に生き物の命を粗末にすることに加担するような企業であるならば、その「経営理念」は一体どうなっているのかと疑いたくなります。

これはちょっと注意して見ておきたいと思いました。

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2011/12/09

私のアポリア

「スピリチュアル」への私の不信感は何に由来するかと言えば、言語学の不在と複雑性の閑却、これである。今日、実践的仏教には、どうしても「スピリチュアル」が纏わり付くようになってしまった。

無論、アカデミックな言語学や複雑性のみによって仏教の本質が理解できるわけではない。だが、スピリチュアルな非言語的探究や、単純性への回帰によってのみ仏教本来の姿が取り戻せるかと言ったら、そうではないと思うのである。

おそらく、ダライ・ラマを筆頭とするチベット人社会においては、「アカデミック」と「スピリチュアル」が元からひとつなので、その2つの世界を行ったり来たりすることに何の矛盾も感じないのではなかろうか。

ところが、現代日本社会においては、「アカデミック」と「スピリチュアル」は分化している。制度的にも信念的にも分化している。少なくとも、分化しているように見える構造になっている。そこに生まれ育ち、現に生きている私は、分化している(ように見える)両者を、再び結び付けて生きようとすることに、困難を覚えるのである。

なぜか。アカデミックでもあり、スピリチュアルでもあるような想像力を生きるための言語体系、すなわち神話を喪失した社会に生きているからである。

日本国神話、漫画アニメ、精神世界、伝統宗教などなど、今でも私に神話を与えてくれようとするものは複数存在する。しかし、そのどれひとつとっても、懐疑なしに受け入れられるようなものは、少なくとも私にとっては存在しない。あるいは、複数の神話を、懐疑しながら排除せず、同時に生きることさえ求められると感じるのである。

これを私は、現代人としての私の「悲劇」とまでは言わないまでも、「アポリア(矛盾――難問)」であると受け止めている。

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2011/12/06

精神世界と仏教学

渡辺照宏訳『仏教』(岩波文庫)で知られるヘルマン・ベックはシュタイナー派の仏教学者だったようですが、それと同じように、今の日本にもトランスパーソナル派の仏教学者の方々がおられるのだと理解すればいいのではないでしょうか。

彼らは梵蔵巴語を解し、仏教学者のとしての業績を挙げた上で、同時代の優勢な(あるいは流行した)思想潮流や精神世界に参加していたわけであって、その営みが後世においてどう評価されるかは別として、その生き方自体を非難しても仕方ないし、またよほどのことでもない限り、非難するには当たらないと思います。ちなみにベックの、シュタイナーの影響を受けた仏教観は、仏教学的には今日あまり顧みられないようですが、近代仏教の言説の研究対象としてベックを取り上げる宗教学者の方はおられます。

ところで、シュタイナー派の仏教学者の生き残りって、今でもドイツにいるのでしょうか。また日本にトランスパーソナル派の仏教学者が何人かおられるくらいですから、アメリカにはもっとたくさんいるのではないかと想像してしまいます。

僕は何の業績もないフリーターですが、こういうことが言えるようになったのは、ひとつには近年シュタイナーが美学や教育学や宗教学の研究対象あるいは現代思想のはしくれとして受容されるようになってきたこと、またアメリカ西海岸の文化が、今年のスティーブ・ジョブズの死を経て、10年前と比べれば歴史的重層性を帯びてきたことが背景としてあります。

精神世界寄りの仏教学者は、まだマイノリティという印象ですが、漫画・アニメ好きの仏教学者はもうたくさんいるわけです。僕から見れば、漫画・アニメも精神世界も、似たり寄ったりの「ローカルチャー」ですが、僕は人間の想像力を能う限り擁護したい。ローカルチャーという「ゴミの島」をいかにして「夢の島」に変えるかを考えたいのです。

しかし自分が「何の業績もないフリーター」というのはやはり痛いですね(笑)。

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2011/12/05

ノルウェイの森、エロかった。

やはり、欲界(kāma-dhātu)においては、エロくないものを見出すことの方が難しいのかもしれない。エロを排除する体系の周縁には、逆説的にエロが繁茂するし、エロに正面切って取り組めばエロを解体除去できるかといえばそうではなく、エロいものはやはりエロいのである。

肯定しても否定してもエロいものはエロい。欲界に属する人間は根本的にエロいので、エロと無縁の世界に行こうとするならば、エロを肯定するでも否定するでもない姿勢を脱構築し続けるしかないのかもしれない(それでもなおエロと無縁ではあり得ないのかもしれない)。

ところで、人が変な方向に行っていないかどうかが非常に気になる僕であったが、変な方向に行っているのは他ならぬ僕自身であろう。これからは、むしろ変なものを積極的に取り入れて行きたい(嘘)。

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「小説的」

小説に出てくる人たちは、言うこと書くこと異様に長い。現実に会話や手紙であんなに長々と自分のことを話したり書いたりする人がいたら、ちょっとおかしいのではないかと思われるだろう。

私は、小説のそういうところは誇張なのだと理解して、それが許せるようになって初めてまともに小説が読めるようになった。

また、現実の会話や手紙は、小説の中のそれのように長くも深くもないことの方が多いのに、実際にはその方が、長くて深い人間関係を支えることもあることの方が、逆に面白いと思った。

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2011/11/30

正義

正義などというものは実はどこにもなくて、妥当性があるだけなのではないかと思うことがあります。

この世には、どこからどこまで完全に正しい人もいないし、どこからどこまで完全に悪い人もいないのではないでしょうか。

そう考えると、ある人を支持できるというのは、その人の言っていること、やっていることを吟味して、現時点で総体的に妥当性があると判断できた時でしかないような気がします。その判断にも、「私」の環境において形成された「私」の主観がどこかに必ず入ります。

他者を支持する際のみならず、自己を肯定する際にも同じことが言えるだろうと思います。

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2011/11/28

Mind & Life Institute

ダライラマが主導するMind & Life Instituteにトランスパーソナル系の研究者が多く参加していると聞いて(もちろん予想はしていたが)驚いた。

日本人やアメリカ人だけでトランスパーソナルとか言ってやっている間は、正直さえないなあ、二次的なものじゃないかなあと思っていたが、ダライラマがそういうこと(瞑想の科学とか)に取り組み始めると、たちまち魂が入るというか、本格的なものになってしまうのには畏れ入る。

マトゥラーナとともにオートポイエーシスを提唱したバレーラは、このMind & Life Instituteを設立した科学者のひとりである。つまりこの団体はポストモダンやシステム論の文脈でもあり得るわけだ?

ところで、ヨーロッパの仏教研究者が文献学ばかりなのに対して、アメリカの仏教研究者は、実践を兼ねるスタイルなのだそうな。

その一方で、例えばハイデガーなど現代哲学の研究においては、アメリカの研究者は文献をちゃんと読んでないんじゃないか、分かってないんじゃないか等の不信の声が、日本の研究者の中から上がっている。

いずれにしても、様々な思想潮流が、かなり自由に交差する時代である。哲学や宗教の研究方法として、ヨーロピアン・スタイルとアメリカン・スタイルのどちらがいいという話ではなく、やがては両者の良いところが出会うようになることに期待したい。

ちなみに中沢新一氏は、河合隼雄氏との対談で、トランスパーソナル派の超越論の安易さを指摘していたが、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会(JATP)の来月の大会で、中沢氏の影響色濃い永沢哲氏が基調講演を行うことになっている。

個人的には、JATPの趣旨に全面的に賛同するものではないが、もはや彼らを隣人として認めざるを得ない状況にある。

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2011/11/06

仏教の事実と私たちの現実

仏教の中で、「真理」というよりは「事実」と言いたい教えがいくつかあります。「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ」は代表的な例ですが、僕はこれとあともうひとつ「怨憎会苦」(怨み憎む者に会わなければならない苦しみ)を挙げたいです。

自分の行動や発言が、怨み憎しみを動機としていないかどうか、常にチェックしなければならないと思います。自分では正しいことを言ったり行ったりしているつもりでも、その心の奥底に怨み憎しみがあれば、結果として敵をつくり、争いを生み、自分を傷付けることになると思います。

これがなかなか難しいですね。怨念と、パッションやクリエイトが分かち難く結び付いている人は少なくないと思います。いや、凡夫は多かれ少なかれ皆そうなのではないかと思うこともあります。私もまた凡夫です。凡夫である限りにおいて、怨念と無縁に生きることはできないのかもしれません。

ただ、怨念と無縁であり得ない世界を、絶対的な世界であると錯覚しないように生きることはできると思います。皆本当は怨念のない世界を理想にしているのだけど、人それぞれに生存するための諸条件に支配されざるを得ないので、どうしても怨念と無縁であり得ないことはあるよね、それはお互い様だよね、仕方がないよね、ははは、と許し合うしかないみたいなかたちで生きているのが現実なのかもしれません。

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2011/11/02

オタクからスピリチュアルへ――「想像力の流出」問題について

Twitter上で、現在も継続して行われている、宗教学者・大田俊寛氏による執拗なまでの中沢新一批判には、東大の柳川啓一研究室批判が含まれているが、新宗教や精神世界(含・宗教心理)を研究対象として、結果的にはそれらに肯定的文脈を与えてしまう宗教学者や心理学者たちへの批判も含まれているのではないか、と僕は読む。

僕は大田氏の言いたいことも分かるが、今後は大田氏的存在がマイノリティーになる予感もする。新宗教・精神世界はいまだローカルチャー的文脈で語られる領域と思うが、今は全体的に所謂ローカルチャーの影響力を無視できない状況になっているからだ。

日本のローカルチャーと言えば漫画・アニメ等のオタク文化だが、それらは知識層・アカデミズムからの長年の抑圧に耐えて、ついに知識人の想像力やアカデミーの内部に浸透するに至ったことは周知である。

僕はこれを世界的な「想像力の流出」現象の一環として捉えている。人間の、個体から集合体に至る果てしない想像力には、どんなに抑圧しようとしても抑圧し切れない量的な広がりがまずあり、それが神話的性格を帯びる時、質的な厚みさえ獲得し得る。だがそれは文化的重層性ともなり、少年の凶暴性ともなる、両刃の剣である。

漫画・アニメ等のオタク文化や、新宗教・精神世界等のスピリチュアル文化といった二次的・代替的な「ローカルチャー」は、少数の高名な人々が掬い取ることのできない圧倒的な量の猥雑・雑多かつ擬似的なるものを受け容れて、大多数の、高名でない、有名無名の人々の間に共有させる想像力の処理システムであり、それが「ゴミの島」としての飽和状態に達した時、それをいかに「夢の島」に変えるかを考えないことの方がむしろ知識人の欺瞞であるような問題意識を突き付ける。

人はありとあらゆることを想像し得る生き物である。想像力を抑制したり絶ったりする生き方があるとしても、それすらメタ想像力の働きによってあると考えられないであろうか。

万人が想像力やメタ想像力を行使して活動する限りにおいて、想像力の流出=ゴミ問題は、大多数非高名の人々にのみ帰せられるべき問題ではなく、少数高名の人々もまた責任感をもって一緒に取り組まなければならない問題なのではなかろうか。

かつてオウム真理教事件を目撃し、今日ダライ・ラマと科学者の対話を読み、意識と科学の協働、その可能性と危険性の両方を知る日本人が世界と共有する洗練された魔術的科学(Apple社の製品を想起せよ)は、ゴミの島を夢の島に変えることもできるはずだ。

ゴミを素材とし、夢を表象する。それは人類が古くから行ってきた営み(ブリコラージュ)である。それが文化的重層性ともなり、少年の凶暴性ともなる。その分かれ目はどこにあるのか。

日本的な「想像力の流出」が問題化し、収束しつつある現象の第一次がオタク文化の公共化だったとすれば、第二次はスピリチュアル文化の公共化ではないか。私たちはまだ、この問題に決着をつけていない。そしてその動きは徐々にダイナミズムを増している。かつ、第一次「想像力の流出」よりも第二次「想像力の流出」の方が問題として手強いのではないか、そんな気がしている。

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2011/10/29

中沢新一の「夢」

宗教学者・大田俊寛さんの今日の連続ツイートに触発されたこともありますが、河合隼雄と中沢新一の対話『ブッダの夢』(朝日文庫)219~223頁「ユダヤ的知性は霊性を羨望する!?」には、中沢さんの、ユダヤ人差別ではないかと疑いたくなる発言があると、前から私も思っていたことは事実です。

例えば中沢「(ユダヤ人は)知性が高いから霊性が低いんです。だから、神の世界とかがわからないんです。それで、あの人たちはひそかに劣等感をもっているんです」等。

故・河合隼雄さんも、この対話の中では中沢さんに同調的でした。河合「(ユダヤ人は)知性の極みとして霊が出てくると思っているわけですね。ぜんぜん違うのにね」。

また中沢「今日の文明は、やはりユダヤ的な知性が大きくリードしてつくられているわけで、そういう世界のなかでは、ユングのように霊的なものを大事にする人たちというのは、頭が悪いと言われるわけですね(笑)」「フランスなどでも、インテリというのはきわめてユダヤ的知性で……」。

河合「ええ。ですからフランスでユングなんて言うとばかにされます」。また少し飛んで河合「面白いですねえ。考えてみたら、精神分析もマルクス主義も一神教の申し子ですよね」。

お二人の対話はハイデガーとユングへの擁護・評価に向かいます。僕はこの記録(1991年!)から教えられたこともたくさんありますが、首をかしげたくなる点があるのも事実で、ネックはやはり中沢的ユダヤ人観とハイデガー擁護・ユング評価および彼ならではの一神教批判・仏教宣言だと思います。

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2011/10/28

「変な宗教」

某宗教団体の宣伝ビデオをYouTubeで見て笑ってしまった。

昔は「オレたちひょうきん族」がやっていたような笑える映像の制作を、今は日本の変な宗教が肩代わりしている感がある。

「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」が受けるのはいかにも今日的だ。社会制度が細分化し、コミュニケーションが絶たれている状況を笑うしかないということかもしれない。

ところで、変な宗教、変な宗教と言うが、自分のやっている宗教はどうなのだろうか。果たしてまともなのだろうか。自分のやっている宗教が、第三者から見て「変」に映っている可能性だってあるではないか。

彼ら(変な宗教)は私の影かもしれない。いや、私が彼らの影かもしれないのだ。

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