2012/05/05

Calculated Desert Island

Calculated_desert_island_s

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2012/04/28

伊東乾先生について

東京大学大学院情報学環准教授・伊東乾先生のネット上での発言が、最近また物議を醸しているようです。

実は私も伊東先生のものの考え方には、ある時期から疑問を抱くようになったのですが、それは仏教について去年、先生とTwitter上で会話してからです。

そこで、

Ken ITO 伊東 乾(@itokenstein)/2011年02月18日 - Twilog http://bit.ly/JGVW1t

セン大維(@sen_dawei)/2011年02月18日 - Twilog http://bit.ly/JgMEDw

から、去年の会話を再現してみたいと思います。

以下。

伊東先生:何となく多くの人が「仏教は東洋思想」と思ってないだろうか?「東洋思想の仏教」もある。でもゴータマ・シッダールタ自身はインダス文明圏の人で原始仏教はアレクサンダーの帝国下ギリシャ哲学で鍛えられ数百年後漢訳された代物。根から東洋思想と断じるのは不自然と思う。それが皆日本の根になってる
posted at 02:20:17

私:「原始仏教はアレクサンダーの帝国下ギリシャ哲学で鍛えられ」という説は初耳ですが、どの文献にそのような記述が見られますか? RT @itokenstein: 何となく多くの人が「仏教は東洋思想」と思ってないだろうか?「東洋思想の仏教」もある。でもゴータマ・シッダールタ自身はインダス
posted at 06:31:48

伊東先生:@sen_dawei 東洋文庫で日本語訳も出ている「ミリンダ王の問い」をご覧下さい。、ミリンダは飲み物ではなくメナンドロスというギリシャの代官です。唯識論などの北伝仏典にはアリストテレス形而上学の検証が一通り入っていると認識しています。
posted at 10:19:04

伊東先生:@sen_dawei ウィキですが「ミリンダ王の問い」だけ まず。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3...
posted at 10:20:09

私:@itokenstein ありがとうございます。
posted at 14:52:51

以上。

そんなのおかしいなあと思いながら、Twitterとかで論争するのはめんどくさいので、いったん形式的に御礼申し上げて引き下がったのですが、やはり気になるので、その数ヶ月後、原始仏教をご専門として大学で教鞭をとられる別の先生とお会いする機会を得たのを幸い、

「『ミリンダ王の問い』を根拠に、「原始仏教はアレクサンダーの帝国下ギリシャ哲学で鍛えられ」と主張することはできますか?」

と質問させていただきました。

答えはもちろんノーです。

さらに、伊東先生の、

「唯識論などの北伝仏典にはアリストテレス形而上学の検証が一通り入っていると認識しています。」

これも納得のいかない主張です。まず、唯識論などの北伝仏典がアリストテレス形而上学の検証の影響を受けていたという歴史的事実があるかどうかですが、そんな話は私は読んだことも聞いたこともありません。私の知識も乏しいものではありますが、普通に考えてそれはないのではないかと思います。

では、比較思想的に、唯識論などの北伝仏典とアリストテレス形而上学の検証との間に、時空を超えて同じと見做せるような何かが、果たして存在するのでしょうか?

私には、そこまで綿密に調べ上げるだけの能力も気力もありません。

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大維

僕の名前は「大維」と書いて「ひろゆき」と読むのだが、初めてお会いした方でそう読めた人はいまだかつて一人もいない。

中国系に「大維」名の人は普通にいて、これはダーウェイ(dà wéi)と読む。だが、親は中国に縁もゆかりも思い入れも何もない。ただ「ひろゆき」と付けたかったのであって、音に漢字を当てる際、王維とか維摩とか歴史的人物の名前を参考にしたらしい。大層なことだ。

ジャガー横田の息子の名前が「大維志」(たいし)と発表された時は笑った。

最近は大維と書いて「だいすけ」と読む日本人俳優もいる。僕の名前も「だいすけ」と読まれて構わない気がする。台湾人タレントの呉大維(ウー・ダーウェイ)の芸名が「デヴィッド・ウー」なので、「デヴィッド」と呼んでくれても構わない。かっこいい。

ここで質問です! 「大維納」と書いて何と読むでしょうか?

答えは、「ダーウィン」。

嘘です。これは僕が勝手に考えたのです。

「維納」を現代中国語読みすると、「wéi nà」(ウェイナー)になると知りました。ということは、「維納」は実は音的には「Wien」よりも「Vienna」や「Wiener」に近いのかもしれないと思いました(適当)。

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2012/04/24

僕のばあちゃんについて

今の朝ドラをチラ見すると、薬剤師だった福岡のばあちゃん(90代で他界)のことを思い出す。確か長崎県で、女性としては2人目か3人目かの薬剤師だったばあちゃん。東京の薬科大学を出た(註)。当時、大卒の女性は珍しかった。ばあちゃん曰く、モガだったという。それから陸上競技が得意だった。スーパーウーマンだ。

九州に帰って医者と結婚するはずだったのが、当時の事情か何かで、商人(僕のじいちゃん)と結婚。福岡で子育て。子供たちがみんな成人して独立しても、ばあちゃんは歩けなくなるまでずっと薬局を続けていた。

このばあちゃん以外のじいちゃんばあちゃんは、父方のも母方のもみんな僕の生まれる前に他界していたので、実に僕にとって唯一のばあちゃんだった。

モガ時代のばあちゃんの写真は、僕は見たことはないが、一応残っているらしい。美人だったという。孫に元ファッションモデルの看護師がいるくらいだから、あり得ない話ではない。

今やっている『梅ちゃん先生』は戦後の話だが、僕のばあちゃんの青春は1930年代だった。

註:正確には昭和女子薬学専門学校卒業。この学校が戦後に昭和薬科大学となる。

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2012/04/05

「漫画は文学の足元にも及ばない」に対する異論

漫画と文学を比較して、「漫画は文学の足元にも及ばない」とするのは、やはり無意味であろう。そもそも両者は、歴史的な起源も異なれば、社会的な役割も違う。現存する反・漫画論者によれば、文学的尺度でもって漫画の質を測れば、その文化的水準は「低い」ということになるらしいのだが、漫画に文学を求めること自体がそもそも間違っているように思う。同様に、文学に漫画を求めることも誤りであろう。

あるいは別の例に置き換えてみれば分かると思うのだが、映画に文学を求め、文学に映画を求めるということが、ある程度は成り立つとしても、やはり映画は映画であり、文学は文学であり、したがって漫画は漫画なのである。それぞれのメディアの特性によって、それぞれに固有の発達史があり、思想があるのである。

「漫画に哲学を見出す」と言っても、その「哲学」が、「学としての哲学」の意味でないことは言うまでもない。むしろ「学としての哲学」でない「哲学」を見出すことができるからこそ、「漫画の哲学は面白い」という最近の評価が成立していることを理解しなければならない。

漫画の特性のひとつとして挙げられるのは、より多くの人口に膾炙し、広範な影響力を持つメディアであるということだ。無論、反・漫画論者が指摘するように、その表現の程度が「低い」と見做さざるを得ないような作品が多数存在することは事実である。だが、そのことをもって、今日の日本文化の中から漫画を切り捨てて考えることはやはりできない。

自分から見てあまり上質でないと思われる漫画が、社会的には多くの支持を得ている場合、その作品が社会的にどのように機能しているかについて考える必要がある。自分にとっては価値がなくても、他者にとっては価値があるというこの事態を無視して、今現に自分が置かれている社会と文化の実態を理解することはできない。

例えば、自分から見て倫理的に問題があると思われる漫画が、多くの読者の支持を得ていたり、ウェブサイトの広告として、不特定多数のユーザーの目に否応なく飛び込んで来る状況があるとして、そこからこの社会に同居する他者が何を考え、何を欲しているか、あるいは何を企んでいるかを理解すべきだと思うのは、社会的存在としての私にとってはむしろ自然なことである。

個人的存在としての私にとっては不自然であり、到底受け入れられないようなものが、社会的存在としての私にとっては、即座にそれを非難することが必ずしも有効ではなく、またそれを受け入れ、楽しんでいる他者が大勢いて、しかも現時点では違法ではないというケースは往々にしてあるのであり、その現実に直面して、自己の主観的理解を絶対化せず、客観的理解に努めるということは、社会的存在としての私をとりあえず過剰な不安に陥れないためにも、また将来的に個人から他者に働きかけて、皆にとってより良い社会とは何かについて共に考え、さらにはこの社会をより良いものに変えて行こうと実践するに当たっても、予め必要なことである。

私は私としてのみ生きているのではない。自己と他者を置き換えることによって、初めて私は私になるのだとも言える。私が常に私としてのみ生きているのではない事実を知るならば、価値観や信念体系の異なる他者たちを、同時に内なる自己として受け入れ、彼らの抱える問題を、私自身の問題として考えることができるようになりたいと私は思う。

私にとって異質なもの・異様なものに対して、即座に非難する態度を取り続ける限り、現にあるこの社会についてアクティブに考えることはできないし、その社会の同居人である以上、「彼ら」と何らかのかたちで相互依存的関係にある「私」というものの正体を知ることもできないと思うのである。

私にとって、漫画というメディアとどのような関係を結ぶかについて考えることは、異質・異様な他者とどのような関係を結ぶかについて考えることでもあるのである。

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2012/03/30

文化と社会

実は、うちのマンションの清掃のおじさんがクラシック音楽のファンで、時々立ち話すると長くなってしまうのだが、今日聞いたら彼はフルートを吹くという。耳コピじゃなくて、楽譜から入る先生についたので、パート譜は読めるが、逆に楽譜がなければ吹けない。なので、楽譜なしで吹く場合は、頭の中に譜面が思い浮かぶのだとか。

時々、クラシック音楽ファンには知識層が多いだの、富裕層が多いだのといった話を聞く。もしも統計を取れば、全体的にはそうなるのかもしれないが、個別に見ればそんなのは法則として全然成り立たない。各人が好きな音楽をやればいいのであって、知識層だからクラシック音楽をやらなければならないということも別にない。

そして、清掃などの労働に従事している人がクラシック音楽を嗜むということを「珍しい」と思ってしまった自分の中に、労働者への差別観や、クラシック音楽という文化への勘違いが潜んでいたと気付き、深く反省させられたのである。

世の中には、タクシー運転手をしながらサンスクリットの勉強を続けている人や、焼き鳥屋の主人をしながらハイデガーの『存在と時間』を自分で訳している人もいると聞く。その場合、亭主が商売にかかりっきりにならない程度に奥さんが一緒に働いてくれている可能性があるが、でも、そういうのはいいじゃないかと思う。

「フルートの神」と称されたマルセル・モイーズ師(1889~1984)は、一見労働者のようななりをしていたという。師曰く、若い頃に音楽だけでなく、大工をしたりボクシングのセコンドをしたりと、いろんな職業を自ら進んでやったそうな。もちろん、音楽以外の芸術や文学や哲学etc.も学んだ。社会のこと、人間のことが分からなければ音楽のことも分からないと考えたからなのだそうだ。

「芸術家は、芸術家らしく見えないのが一番いいと思っている。」

これはモイーズ師の言葉であるが、ここに彼の生き方が集約されているのではないかと思う。

さて、「知識層」というのは、公の知的な媒体にものを書く立場の人のこととも考えられるが、やはり曖昧な概念である。もちろん、私は専門家の存在というのは大切と思う。専門家になめた口をきくのはよくない。目上の人への敬意というのも、人として当然のことだ。

だが、一般社会において人と人とが触れ合うことというのは、肩書き以上に、良心と良心とが触れ合うことだと思うのだ。良心と良心とが触れ合うことにおいて、非専門家が専門家の教えを乞うということがあり、また専門家の盲点に専門家自身が気付くということもあると思うのだ。

作曲家マーラー(1860~1911)の妻アルマ・マーラー(1879~1964)が書いた本の中に、作曲家のプフィッツナー(1869~1949)が、当時の労働者の群に遭遇し、彼らの形相の凄まじさに驚き、青ざめていたというエピソードがあった。僕は高校生の時、それを読んで「おかしい」と思ったものだ。プフィッツナーの態度は、あまりにも貴族然としすぎていると思ったのだ。労働者の側に立てない芸術家というのはいかがなものかと思ったのだ。

もちろんそれは、19世紀末~20世紀初頭のヨーロッパの話であるから、今日とは社会構造が異なり、貴族・知識層が貧困・労働者層の実態を目にしてショックを受けるということはあり得ただろう。しかし、それから100年以上経ち、西欧型社会の在り様もずいぶんと変化したにも関わらず、いまだに前世紀の上下構造の呪縛から脱し切れていない点が今日あるとすれば、それはやはり問題であり、これからも光を当て続けなければならないと思うのだ。

追記:拙文を読まれた方から、欧米の社会事情に関してご教示いただき、日本のハイカルチャー受容の実態から推測して西欧の文化と社会の問題を考えようとするのは無理があると気付かされた。

私が考えたのは、西欧の社会と文化を移植した日本の社会と文化に、いろいろとちぐはぐなことが起こっており、私たちの意識もちぐはぐになっているのではないかということであった。

ただし、西欧的階層性と日本的階層性は異なるのであって、私は、日本的階層性を西欧的階層性と錯覚して問題化しようとしていたのかもしれない。それは誤謬であった。

では、日本的階層性とはいかなるものかと言えば、私はそれについてまだよく分かっていないのではないかと思う。

 

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2012/03/29

今、「思想」とは何か

「思想」という言葉や領域に関心を寄せる人は、自分を含めて、今、一定程度多くなっていると思うが、僕は同時に「思想」というものの根拠のなさも感じている。少なくとも、今流行している「思想」とは、専門的で実証的な知の体系のことを指すのではないのではないか、と思う。

では、今の「思想」には、どのような存在意義があるのだろうか。「思想」の根拠のなさを自覚し、前提しながら、なお「思想」に取り組む意義があるとすれば、それは心と言葉のまとまり(人格)を持って人と人とが交流することの中から自ずと湧出する、あるポジティブなものの可能性にこそあると思う。

世間的な「お喋り」の次元ではなく、本質的な「対話」の次元で、専門家と非専門家とを問わず、人間として同じ権利を有する者同士が、心と言葉を交わし合う過程において、個人と社会とが回復に向かう可能性こそ、私たちが「思想」の世界に入る意味だと思うのである。

ここで「お喋り」と「対話」の違いについて言っておきたい。私的次元の会話が「お喋り」であるとするならば、公的次元の会話はお喋り以上のもの、すなわち「対話」でなければならない。

そもそも、個人と個人が、個人と社会が、さらには社会と社会が、本質的次元において交わり合うきっかけをいつのまにか失ってしまったことが、今日的不安の根源であるとするならば、公的「対話」それ自体に、私たちの病を自ずと癒す力が宿る可能性があるのではないか、と思うのである。

専門家と非専門家とを問わず、人間の声を独白に終わらせないこと、対話に入らせることこそが、今日の「思想」の存在意義の最たるものではないかと思うのである。

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2012/03/20

Windows7の色調整とフォントスムージング機能を改善

Windows7には、標準ではClearTypeという中途半端なフォントスムージング機能しかありませんが、それに代わるgdippというフリーソフトがあることを知りました。使ってみて便利だと思いました。気に入らなければアンインストールできます。

窓の杜 - 【REVIEW】インストールするだけであらゆるソフトのテキストを美しく滑らかに描画「gdipp」
gdipp - k本的に無料ソフト・フリーソフト

またWindows7標準搭載の色調整機能は使い物になりませんでしたが、それに代わるフリーソフトがありました。

テテのつぶやき: CalibrizeをWindows 7で使用する方法
あなたの液晶ディスプレイはホンモノの色ですか?Calibrizeでホンモノの色を体感しよう | マイスクラップブック
ThinkPad X300 その8 ~画面の色合いを調整する~ | ダメにんげんスパイラル!!
bLogOval.: 少しでもまともな色に:Windowsの簡易キャリブレーションツール "Calibrize"

私はこれらのページを参考に、自分の環境を改善しました。Macには及ばないとしても、ずいぶんましになったと思います。

なお、こちらの記事も参考にさせていただいております。

書くためのフォント ~ 美しい等幅フォント (1) - CLASSICA - What's New!
書くためのフォント ~ 美しい等幅フォント (2) - CLASSICA - What's New!

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2012/03/09

あしたのために

なぜ、死んではならないのか。なぜ、殺してはならないのか。そういうことは、知識のあるとないとを問わず、「生」の問題に直面したことのある者なら、きっと誰でも考えることである。

そういう素朴で、根本的な問いを若者が発したら、それを全身で受け止めてくれる人が必要だと思うのだが、今は親も教師も宗教家も、その役割を十分に果たせないことの方が多いのではなかろうか。それは彼らのせいではなく、そういう社会になってしまったからではないのか。

今日、若者の素朴で根本的な問いを受け止める役割を果たしているのは、場合によっては、娯楽という形式を通して、暴力の悲しさや、愛することの大切さを教えてくれる、すぐれた漫画作品であったりするのかもしれない。

なまじっか知的なタイプの青年が、純文学や、哲学に手を出すと、かえって厭世観を募らせ、虚無主義に陥り、生きるどころか死んだ方がましという、元も子もない結論に誘い込まれる危険性があるというのは、僕の偏見だろうか?

その問題はさておき、僕の考えでは、「生」というのはある意味、問答無用なのだ。「生存は判断に先立つ」と言いたい。そもそも生存のための判断であって、判断のための生存ではない。「判断のための生存」と言うと、まるでゲームの中に生きているかのようだ。それは知識人の仕事ではあり得ても、一般人が即、必要としているものではないのではないか。

そしてもちろん、若者だけが生存の危機にさらされているのではない。知的な議論に参加できる能力のあるとないとを問わず、また答えが出ると出ないとに関わらず、素朴で根本的な問いを誰でも発することができ、また受け止めることのできるような場所が今、以前にも増して必要とされているのではなかろうか。

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2012/03/03

Google+で「注目の投稿」を非表示にする方法

Google+を使い始めた人たちの中から、自分がフォローしてもいない女性アイドルグループの人の投稿を見たくないとの声が聞かれるようになりましたので、対策を書きます。

Google+画面左側の「注目の投稿」をクリックします。すると、そのストリームは、女性アイドルグループの人の投稿が多くを占めています。

そこで、画面上方に白い丸いボタンみたいなスライドできるスイッチがあるのが分かりますか? それを左端まで持って行って「非表示」レベルにすれば、自分のメインストリームには「注目の投稿」は表示されなくなります。

もしも困っている方がおられましたら、この方法をお試しください。私個人的には、そこまで目障りに思っていなかったのですが。

なお、最近は「注目の投稿」にアダルトサイト系アカウントからの投稿も表示されるようですが、それも含めて非表示にできます。

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2012/02/05

「擬似ロマン主義」について

「東西文化の融合」を娯楽や虚構としてではなく、思想や研究として看板に掲げる人が、常識的に考えてあり得ない陥穽にはまることが時々あるように思いますが、なぜでしょうか。そもそも文化の、理念的に完全な姿があるとの前提の上に、融合して全体化すべき「東西」、すなわち対立的二項などというものが実体としてあるのでしょうか。

私は、それは実はないのではないかと思います。また、娯楽や虚構のレベルで「融合」することは、一時的な遊びであることは通常誰でも分かりますから、その限りにおいて面白いですが、一時的な遊びにとどまらない影響を世間に与え得る「思想」や「研究」のレベルで「融合」しようとすることには、ある種の危険性が伴うのではないかと思います。

そもそも文化の複合性とは、「完全な全体」を理念として立てて人為的に行われるものではなく、地理・歴史的な偶然の交差上に成立する現象だからこそ重層性、すなわち伝統とも見做され得るアウラを自然と獲得するのであって、それが「興味深い複合性」であるのは、もともと「完全」も「全体」も目指していなかったからこそなのです。

「完全な全体」を目指す人為的混交が、「興味深い複合性」を呈することはあまりないでしょう。むしろグロテスクな、虚偽としての「全体のようなもの」に対する幻想を抱かせる類の文化の生まれる土壌を殖やすだけではないかと思います。

かつて、作曲家の武満徹は彼の作品『ノヴェンバー・ステップス』において、琵琶と尺八とオーケストラの共演を試みました。彼は異質な文化の安易な「融合」ではなく、お互いの「差異」を認め合うことこそが文明間の調和に通じるとの思想から、和楽器とオーケストラの厳しい対決であるような作曲法によって、別次元の美へ到達しようとしました。作品のその後の成功が、武満氏の試みの成功を示していると思います。

そして、もともとありもしない「完全」「全体」「融合すべき二項」への想像力――私はこれを「擬似ロマン主義」と呼んでみたいのですが――を、予めそれと了解されるところのフィクションではなく、実現すべき理念として掲げることに付き纏う、根拠なき強制力(暴力)の危険性を察知する能力は、何も特別なものではなく、社会の混乱を未然に防ぐ常識的弁えとして、誰でも身に付けることができるものと思います。

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2012/02/04

ランラン

ランランが最初にN響と共演した時は、面白かった。

ニフティのクラシック音楽会議室のチャットで話題になって、僕は「中国の曲芸みたいだった」と言ったが、ある人は「柔道の選手みたいだった」と言った。

誰もがそのオーバーアクションに笑いをこらえきれなかったが、ピアノがオーケストラを引っ張るかのごとき勢いに圧倒されて、「でも、すごかったね」という結論に達した。

僕も、あんな変態ピアニストは見たことがなかったから、ファンになりかけてCDを買った(その後聴き飽きて売ってしまったが)。

かつて、ソ連の社会主義政権下では、多くの芸術家たちが体制下で苦汁をなめた。

今の中国の芸術家たちも、旧ソ連の時と似たような状況に置かれているのかもしれない。



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2012/02/02

手塚治虫の博士論文『異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究』ツイートについて。

昨夜、僕がツイートした手塚治虫の医学博士号取得論文閲覧情報(↑)が、あれよあれよという間に拡散し続けて、現時点でお気に入り登録数129、リツイート数174を記録、50,000人以上のユーザーのTLに流れたようだ(こうしている間にもまだちょっとずつ増えている)。

僕とほとんど同じやり方で検索した結果をレポートしたブログは去年からあり、また同じ情報が2010年にもツイートされ拡散したことがあるらしいことも後で分かったが、おそらく発信者のフォロワー数や層の違いから、同じ情報が改めて広く受容されたものと見られよう(2011年以降のTwitterブームもこれにプラスしているかもしれない)。

正直、自分のツイートが、こんなに拡散するとは思わなかったので、昨夜は思わず舞い上がってしまったが、別に何の業績にもならなければ、収入にもならないし、大騒ぎするほどのことではない、何興奮してるんだ俺バカと頭を冷やした。今はパチンコで大当たりした後のような気分である。

お気に入り登録やリツイートしてくれた人のプロフィールは、全部は見られなかったが、漫画アニメ系の他に、理工系、IT系の人が比較的多い印象であった。

当論文は、長年の手塚ファンである僕にとっては、タイトルと研究機関名くらいしか分からなかった伝説的作品であり、一度は見たくてたまらなかったものだ。医学系研究者以外は閲覧できないのかとさえ思っていたが、ふとした思いつきで検索してみると、あっさり見られたので、興奮してツイートした結果がこれだが、多くの人と興味を分かち合えてよかったと思う。

ちなみに論文の内容は、医学知識のない僕にとってはおよそ理解できるものではなかったが、「細胞」「膜」「構造」「微細」といったキーワードの鏤められた緻密な文章に、紛れもない「手塚治虫」その人を見る思いであり、感銘を受けた。やはり「生命と科学」は彼の一貫した思想であり、生涯のテーマだったのだ。それをこのようなかたちで改めて確認することができたのは、収穫だった。

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2012/01/31

内田樹先生のツイートに思う

“懇親会で、永澤哲さんと隣になって、あれこれ話しているうちに『野生の哲学』を書いた人だということに気づいて、野口晴哉論に花が咲きました。今日の集まりに来ているのはほぼ全員が「超常現象ってあるよね」派の学者さんたちなので、「ねえねえ、こんな話知ってる?」に花が咲きました。”

“でも、人間には「いろんなこと」ができるという話にマスメディアと学会はまったく冷淡です。どうして?科学的にうまく説明できないことは「存在しないこと」にしていいの?”

内田樹先生のこの2つのツイートについて考えてみました。

私は超常現象に言及するのがあまり好きではありません。ですがそれは、科学的に超常現象を認めない立場だからではなく、むしろ宗教的に超常現象を認める立場だからこそ、必要以上にそれに言及すべきではないと考えるのです。

なぜならば、悟りを目指す宗教者にとって、超常現象は人の成長過程の副産物にすぎず、悟りそのものではないからです。それに囚われていては成長が止まり、悟りへの道が閉ざされる。ましてや売り物にするなど考えられません。

宗教者にとって、超常現象は「あるよね」ではなくむしろ「ある」でしょう。そして「ねえねえ、こんな話知ってる?」に花を咲かせるのを戒めると思います。ある程度は許容しても、必要以上に言及するのは避けるはずです。

もしも私が科学者ならば、「論理的に説明できないものには安易に言及すべきでない」として超常現象談を避けるでしょう。宗教的に深入りすべきでない超常現象談や、科学的根拠のない超常現象談が広がれば、オカルト・ブーム再来の危険性がありますから、マスメディアがそれを取り上げないのは当然と思います。

ただ宗教者にとっては(どの宗教かにもよりますが)、非日常的な体験が、「成長過程の副産物」ではすまされない強度をもって迫ることもあるのではと想像します。「神秘体験」と呼ばれるものがそれで、その人の生き方を変えるほどのそれが「副産物」として片付けられてしまうことに納得のいかない人も多いかもしれません。ただし精神的に深い意味を持った宗教体験(神秘体験)と、サイキックな超常現象の違いをちゃんと認識することができるかどうかは重要だと思います。宗教者によっては、両者が混ぜこぜになっているので、おかしなことになるのではないかと思います。

また先ほど、宗教者にとって超常現象は「ある」と述べましたが、私見では、仏教者にとっては「ない」でいいと思います。

大学ではリクールとかレヴィナスとかいった哲学を教えていた人が、年を取って退職するとオカルト色のある活動を始めるといったケースは珍しくないようです。内田樹先生に限りません。オカルトまでいかなくても、世界観がロマン主義的に肥大したりといったことがあります。

ですが神秘主義もピンキリ、善し悪しと思います。

 

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2012/01/28

女性の顔立ち、特に顎(えら)について

僕は、歌手のアランやモデルの佐々木希に、あまり女としての魅力を感じないのだが、この三人の顔立ちには共通点があるように思う。顎(えら)があまりがっしりしていないのである。

概して現代人は昔の人と比べて、あまり硬いものを食べなくなったため、顎が発達していないという説がある。そうした条件が重なって、時代とともに美人観も変化してきた可能性がある。

オードリー・ヘップバーンは自分の顎の形にコンプレックスを持っていたという。また長谷川京子は、ある時期から顎のラインがスマートに見えるようになったため、整形したのではないかと一部で噂されている。

女性タレントのみなさんに言いたい。気にするなと。少なくとも僕は、オードリー・ヘップバーンの顎のどこが格好悪いのか分からないし、長谷川京子の場合は、本当に整形したのかどうか知らないが、初期のがっしりした顎の方が好きだった。

その点、緒川たまきはすばらしい。誰がどう見てもがっしりしたあの顎を、変えようともしなければ、隠しもしないところは本当に魅力的だ。僕の個人的な好みを敢えて言うならば、緒川たまきに象徴されるところの、美しさと逞しさが入れ子構造になっているような女性の顔立ち(何だそりゃ)を高く評価するものである。

ただしこれは、あくまでもえらについての話であって、しゃくれについての考察は次回に譲りたい。男性のしゃくれなら、アントニオ猪木や高橋名人のようにトレードマークともなろうが、美貌を求める女性が自分のしゃくれを気にするならば、その気持ちは想像するに忍びない。だが、今日美貌ナンバーワンとも言われる女優の綾瀬はるかが、あの微妙なしゃくれを整形したら、きっと本来の魅力を失うであろう。ゆえに女性のしゃくれについての美的判断は慎重を要すると考える次第である。

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2012/01/10

あり得た! 真『めぞん一刻』論

『ノルウェイの森』と『めぞん一刻』『タッチ』に物語構造上の類似のあることは、僕も去年気付いたが、それを論文にするのは日本文学者の平野芳信先生に先を越されていた。

ちょっと悔しい。

でも、平野先生の書かれたこの本、読みたいな。

村上春樹と《最初の夫の死ぬ物語》(翰林書房、2001年)

これは平野先生の日本文学のシラバス。上記の本が教科書になっている。

また、ここでも平野先生の本が言及されている。

まあ、僕の着眼点は、まんざらでもなかったということか。でも、完全に先を越された。というか、相手の格が上すぎる。

ところで、今回たまたま見つけたこのページだが、

音無響子さんの矛盾~言語と論理

なんだこりゃっ!

言語学者の金沢欣二先生という方の文章だ。

カフカ、クザーヌス、ヴィトゲンシュタイン、夏目漱石、川田順造、ロートレアモン、レヴィ=ストロースだのといった名前がどんどん出てくるぞ。

ふ ざ け ん な 。

俺の響子さんを返せ!!

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