
何を隠そう、私は映画『スターウォーズ』が大好きである。
特に超能力「フォース」と光剣「ライトセーバー」を駆使して銀河系の秩序を守る平和の騎士「ジェダイ」の宿命について思いを馳せずにはいられない。
ジェダイは何者をも憎んではいけない。そして、愛してもいけない、といわれている。
愛憎の世界に足を踏み入れた瞬間、ジェダイとしての均衡の取れた意識は乱れ始める。その時、フォースの暗黒面はすぐ側まで近づいているのだ。だからジェダイは本来、独身であることを定められている。
さて現実生活者としての私は俗人であるから、愛も憎しみも人並みに持っていると思う。
しかし、憎しみを克服することよりも、愛を克服することの方が難しいのかもしれない、とも思う。
人間の本質は、やはり憎しみではなく愛なのではなかろうか。
人間は本来、憎しみの力よりも愛の力の方が強いのだ。しかし愛に溺れることによって、心の堅固さを失えば、ますます憎しみに飲み込まれる自分をどうすることもできなくなってしまうであろう。それこそが人間の悲劇なのだ。ジェダイが理想とするように、憎しみだけでなく愛をも克服するというのは、並大抵のことではないのである。
『スターウォーズ』新三部作(エピソード1・2・3)の主人公アナキン(のちのダース・ヴェーダー)は恋人パドメ(アミダラ女王)を深く愛してしまったがゆえに、ジェダイの戒律を守り通すことはできなかった。二人は結婚し、パドメは二人の子供を産む(これが旧三部作[エピソード4・5・6]の主人公ルークとレイアである)。
アナキンは母を愛し、妻を愛した。誰よりも深く愛したがゆえに、同時にジェダイの掟を破ってしまうことにもなった結果、憎しみの世界に果てしなくひきずりこまれて行き、ついにはフォースの暗黒面に身を委ね、ダーク・ジェダイとなり果てる。そのプロセスを描いた悲しいストーリーは、ぜひとも映画館やDVDでご覧いただきたい。今年の『エピソード3』の公開が待たれる。
注目すべきは、「悲劇」としての『スターウォーズ』の本質がここに明かされていることである。新三部作によって、『スターウォーズ』の物語の本質としての悲劇性が浮き彫りにされたのである。旧三部作はハッピーエンドのエンターテイメント作品の印象が残るものだったが、旧三部作世界のメタ世界としての新三部作は、エンターテイメントの要素を一層豪華に盛り込みながらも、物語としてはより複雑であり、最後には悲劇的結末を迎えることが予想されている(これが今年公開予定の『エピソード3』のいちばんのみどころなのだ)。
しかし、実はその悲劇性こそが、作品全体のいわば「前奏曲」や「通奏低音」となって、この長い物語に普遍的な深みを与えているのではなかろうか。そしてそれがSF的な夢と冒険の広がりを兼ね備えた娯楽超大作として成立することによって、現在のような世界的な人気を得ることができたのであろう。 『スターウォーズ』の物語の普遍性は神話学からヒントを得たものといわれるが、神話と呼ばれるものの多くが悲劇性に彩られたものであることを忘れてはならない。
人間にとって普遍的なモチーフと、最新の娯楽の要素を絶妙に融合させることに成功した映画は、芸術面と興行面、両方での成果を収め得る。商業主義的な娯楽映画を素直に楽しめないことの方が多い私でも、そういう意味での優れた「悲劇的娯楽映画」を楽しむことにかけては、けっこう素直だったりするのである。
☆参考サイト(情報感謝!)
STAR WARS OFFICIAL SITE
スター・ウォーズの鉄人!
www@mmy STAR WARS JEDI SPIRITS JAPAN
※この記事は、ソーシャル・ネットワーキング・サイト「mixi」の自分の日記へのコメントとして投稿した文章をもとに作成したものです。
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