HP更新
ホームページ「蓮華蔵」の絵画のコーナーを更新しています。
http://homepage3.nifty.com/chibacom/kaiga.htm
最近、もっともっと絵を描きたくなってきました。
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ぼくは絵を描くのが好きで、ときどき描いてはできあがったものをスキャンして自分のHPにUPしている。
http://homepage3.nifty.com/chibacom/kaiga.htm
この仮想ギャラリーであるが、mixiのアルバムにも出張所を作った(全体に公開)。
http://mixi.jp/view_album.pl?id=256263
誰かに見てもらいたいがために描くのではなくて、描きたいから描くのであるが、描きあがったものを全てお蔵入りにしておくのも何だなと思うのでこうしたかたちで「発表」している。
おえかきがコミュニケーションのためのツールであるならば、作者以外誰も見ない絵というのはモノローグみたいなもので、これは僕の考えでは無意味に近い。やはり人間の視線と絵との間にはダイアローグが、意味が発生してほしいのである。
だけど、自分のHPとmixiのアルバムに黙ってUPしてあるだけでは、UPされたこと自体に気付いてくれる人があまりにも少ないため、こうして日記化することにもしてみたい。この方が、見てくれる人が少しは増えるのではないかと思う。
自己顕示欲は大敵であるが、何かを描くという行為が、ただ単に自分との対話のみに終わってしまうことはもしかしたら危険でさえある。「モノローグ」とは「病的なダイアローグ」のことではないか、とすら思う。だから、描かれたものは、いつかどこかで誰かに見られなければならないものなのだと思う。
最近UPした絵は、先日、台風が通り過ぎ、雨が止んだ頃描き終えた。描いてる間は「雨ぞふる/雨あがる」という言葉が浮かんでいたが、これではどこぞの大作曲家や映画監督の作品のタイトルと同じになってしまう。それで改めて客観的に見直して、ただ単に「心の枝」というタイトルをつけた。この作品を通りすがりの皆様へ捧げたいと思います(画像をクリックすると拡大)。
※この記事の初出はmixi日記です。
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東京芸術大学美術館が、同大学美術学部先端芸術表現科首席卒業生のマンガ作品を「買い上げ」た。
(関連記事)
http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20040325i405.htm
http://www.japandesign.ne.jp/EXPRESS/040331/002.php
東京芸大には、首席卒業生の作品を「買い上げ」て所蔵する伝統的制度があることは私も前から知っていたが、マンガが芸大買い上げ作品の対象になったのはこれが史上初めてのことではなかろうか。
気になるそのマンガは先端芸術表現科4年(ただしこの春から大学院に進学)、大久保亜夜子さんの『奇的』という作品で、4月には単行本として青林工藝舎から一般発売されるとのこと。彼女の卒業制作も、やはりマンガの要素を取り入れた現代アート作品らしい。
同じ東京芸大出身の村上隆氏が、マンガ的表象を現代アートに取り入れ世界的名声を得ていることはすでに知れ渡っている。芸大がマンガを「芸術/アート」として認め、晴れて今回の「買い上げ」に至ったのも、やはり村上氏をはじめとする、マンガ的表象を用いた作品を制作するアーティストらの仕事が、ここ数年来、世に広く受け入れられ、認められてきたという素地抜きにしては考えられないと思うが、マンガ的表象を自作品に取り入れて現代絵画やオブジェとして表現するという手法は、アメリカのリキテンスタインなどの前例がすでに存在しないわけではない。そして見落としてはならないのは、そのリキテンスタインも村上氏も、マンガ的表象を多用することはあっても、コマ割りされ、ストーリーを持った本当のいわゆる「マンガ」を自ら描くということはまだしていないのではないか、という点である。つまり、彼らの作品が、マンガ自体ではなくマンガを利用した現代アートであるという点にこだわり続ける限り、「マンガ」を地で行く表現行為には永遠に到達し得ないわけである。
今となってみれば村上作品よりも手塚治虫作品の方が人々の目には「純文学的」に映り、より「芸術」に近い価値を持った作品として改めて受け入れられる可能性すらあるのではなかろうか。もっとも、村上氏自身がそうしたサブカル/ピュアアートの既成の関係図式を根底から覆すような活動を行った張本人であるから、「村上らの現代ポップアートよりも手塚らの古典的マンガ作品の方がむしろ芸術的」という批評がこれから出てきたとしても、村上らにしてみればそれはむしろ彼らが意図していた(かもしれない)日本文化における保守的価値観による構図をひっくり返す一大プロジェクトが成功裡に終わったということの証になるのかもしれない…。
で、今回の大久保さんはただ単にマンガ的表象を現代アート作品に取り入れるのみならず、自分自身がマンガ家のひとりとなり、その仕事が権威ある母校からも認められたという点が、村上隆の切り拓いたラディカルな表現可能性の地平を更に(あるいは、別方向に)一歩推し進めた革命的事件であると言ったらちょっとおおげさか。だが、世代的にも村上よりもずっと若いことも手伝って、生まれた頃からマンガがもっと身近な空気のような存在だったであろう大久保が自然体で成し遂げたひとつの功績とは言えまいか。
肝心の大久保マンガそのものを読んでいないのでまだ何とも言えないが、私の推測では大久保マンガの方向性は村上隆や東浩紀らの路線に代表される「オタク的」なものというよりは、非商業主義的(アングラ?)マンガ雑誌「ガロ」を主な舞台として活躍したつげ義春らの私小説作家的な路線を継承した「文学的」なものなのではないかと思われるのだが、果たしてどうだろうか。
この際、大久保亜夜子の『奇的』と綿矢りさの『蹴りたい背中』を比較論的に読んでみるというのも一興かもしれない。これは現代的な「女の子」の自然で洗練された知的感性の勝利である、と文句なしに言える現象なのだろうか。あるいは文壇やアカデミズムが時代に迎合しつつあるという、皮肉でジャーナリスティックな見方が当たっている面も本当にあるのだろうか。
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