「カルマ」とか、「気」とか、現代科学や西洋哲学ではほとんど認められていないが、人間としてそういった東洋的な形而上学を感じる瞬間というものがある。
そういうものを、今流行のスピリチュアリズムでもなければ疑似科学でもない、確固たる宗教的伝統の中に位置づけて、自分の中で体系化したいものである。
東アジアや南アジア、東南アジアにはそういう偉大な宗教的伝統が今もあって、現地の人々はそれを当たり前のものとして生きているのだが、西洋化の進んだ多くの日本人にとっては、そうした伝統さえ遠い世界のように感じられてしまう。
しかし私たちは東洋人なのだから、東洋的伝統に対して、西洋人よりは近い場所にいるはずだし、それを素直に受け容れようと思えばけっこう受け容れられるのではないかと思う(日本人でありつつ西洋の思考に徹したいという信念を持っている人は別として)。
西洋近代の神秘主義や、流行のスピリチュアリズムは、西洋近代の知識人や現代大衆文化の消費者にとっては、あるいは必要なものだったかもしれないが、純粋に霊性的なるものへの気付きにとっては、本来迂回路にすぎないものだ。
現代思想と精神世界を連結させようとするのもあまり好きではない。西洋哲学は西洋哲学それ自体として、東洋哲学は東洋哲学それ自体として、それぞれの内部から純粋に湧き出ずるものによってそれぞれに旧い殻を打ち破り、究極点を目指すための新たな地平を切り拓いてゆくべきだと思う。
それは、両者が全く協力するなと言っているわけではなく、通俗的な方法論によって安易に結びつくべきではないと言っているのだ。
そして「霊性への迂回路」としての精神世界は、たまに「その道の初心者」が「気付き」を得るきっかけとなることもあるかもしれないが(恥ずかしながら私もそうであった)、あとはやはり大衆文化の中の特殊な一分野が消費される市場として機能し続けるにすぎないと思う。
※この記事はmixi日記に付けたコメントをもとに作成しました。
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