2008/01/13

チベット人は夫婦別姓?

チベット人の名前には姓がないのだそうです。

これ、前から興味深く思っていました。
http://www3.aa.tufs.ac.jp/~hoshi/bunka/name/name.html

上流階級でもない限り、家の名前は無いのだそうです。

上流階級でやっと家の名前があるくらいですから、家の名もなき庶民の間では、結婚しても夫婦の名前など変わらないのかもしれません。これって「夫婦別姓」を地で行っているのではないでしょうか。

ただし、ラダックあたりの伝統的なチベット人の結婚は、恋愛ではなく親の取り決めによるものであり、結婚式当日まで男女が顔を見合わせるチャンスさえありません。

そんな、相手がどんな男かも分からない、不安でいっぱいの結婚から、女性が逃れる手段は、出家して尼僧になることです。今はダラムサラあたりの進んだ地域で尼僧になれば、仏教だけでなく英語やパソコンなどの国際的な教育も受けられます。

チベットなどの仏教国においては、昔から僧院が高等教育機関の役割を果たしてきたのです。だけどチベット仏教は戒律厳守なので、僧侶になれば独身を貫かなければならないことは言うまでもありません。

私たち現代日本人は、改正法案としての夫婦別姓論こそまだ通ってはいないものの、恋愛は自由、教育も平等、女性の社会進出など、どんどん自由になってきてはいるわけです。しかしチベット人と比べて日本人全ての人生がそれで満足か、幸福かといったら、それはまた別の問題かもしれませんね。伝統的なチベット人の暮らしの質素さや、仏教の智慧に私たちが魅せられるのはそのためでしょう。

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2007/08/19

東洋と西洋――「霊性」のゆくえ

「カルマ」とか、「気」とか、現代科学や西洋哲学ではほとんど認められていないが、人間としてそういった東洋的な形而上学を感じる瞬間というものがある。

そういうものを、今流行のスピリチュアリズムでもなければ疑似科学でもない、確固たる宗教的伝統の中に位置づけて、自分の中で体系化したいものである。

東アジアや南アジア、東南アジアにはそういう偉大な宗教的伝統が今もあって、現地の人々はそれを当たり前のものとして生きているのだが、西洋化の進んだ多くの日本人にとっては、そうした伝統さえ遠い世界のように感じられてしまう。

しかし私たちは東洋人なのだから、東洋的伝統に対して、西洋人よりは近い場所にいるはずだし、それを素直に受け容れようと思えばけっこう受け容れられるのではないかと思う(日本人でありつつ西洋の思考に徹したいという信念を持っている人は別として)。

西洋近代の神秘主義や、流行のスピリチュアリズムは、西洋近代の知識人や現代大衆文化の消費者にとっては、あるいは必要なものだったかもしれないが、純粋に霊性的なるものへの気付きにとっては、本来迂回路にすぎないものだ。

現代思想と精神世界を連結させようとするのもあまり好きではない。西洋哲学は西洋哲学それ自体として、東洋哲学は東洋哲学それ自体として、それぞれの内部から純粋に湧き出ずるものによってそれぞれに旧い殻を打ち破り、究極点を目指すための新たな地平を切り拓いてゆくべきだと思う。

それは、両者が全く協力するなと言っているわけではなく、通俗的な方法論によって安易に結びつくべきではないと言っているのだ。

そして「霊性への迂回路」としての精神世界は、たまに「その道の初心者」が「気付き」を得るきっかけとなることもあるかもしれないが(恥ずかしながら私もそうであった)、あとはやはり大衆文化の中の特殊な一分野が消費される市場として機能し続けるにすぎないと思う。

※この記事はmixi日記に付けたコメントをもとに作成しました。

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2007/02/26

ドラえ問題

去年、「致命的に壊れたドラえもんを直すために、のび太がロボット工学の世界的な科学者になる」というストーリーの同人作品がヒットし、ネット上でも公開され、多くの人の共感を得たという出来事があった。

だが、あれは田嶋安恵という漫画家の方の創作であることが現在では明らかになっている。

「最終回ドラえもん」と銘打った田嶋氏のその作品は、その後著作権侵害として小学館からの通告と処分を受けたそうである(リンク先のWikipedia参照)。

田崎氏の同人作品におけるドラえもん観について、僕は最初から否定的であった。それについては拙ブログにまとめてあるのでお暇の方はご覧いただきたい。

僕としてもドラえもんの世界観が曲解・誤解・歪曲されることには断固反対なので、今回の田嶋氏と小学館の、著作権をめぐるやりとりも、小学館側の勝利に終わったようで、僕としてはほっとしているしだいである。

さて、あらゆる娯楽作品において、いわゆるスピンオフ作品が作られることについては僕は否定も肯定もしないが、田嶋氏の作品は、よく読めば原作の設定からあまりにもかけ離れたものであるにも関わらず、漫画家としてのプロフェッショナルな力量の発揮された構成のあまりの巧妙さに多くの人が感嘆し、その結果、「あれが本当の最終回なのではないか」と勘違いしてしまったのである。それが大きな問題であると、以前から僕には受け取られていたわけであるが、すでに著作権者からのストップがかかったとのことで、今後はブームも鎮静化していくことを願うばかりだ。

ちなみに、もしも「どうしてもドラえもんの最終回が読みたい」という人には、藤子・F・不二雄『ドラえもんプラス』第5巻(小学館)の最後に収録されたエピソード「45年後……」をお読みになることをおすすめしたい。ドラえもんシリーズの、特に時間的側面において、ある矛盾を孕みつつ終わりなきメビウスの輪を見るような循環構造に、ひとつの終止符的解答を作者自身が提示している点に注目したい。

作品の大ヒットによって、本来どこかで終わるはずの作品を終わることができなくなってしまった、作者自身が背追いこんだ難問に対する「とりあえず」の答えがここには示されている。すなわち、最終回を代替するエピソードと言えるのである。

それでは僕も眠くなってきたのでこのへんで筆を置くことにしたい。

※この記事の初出はmixi日記です。

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2007/02/15

昔のマンガ・アニメから話は飛んで

今、mixiの右上にもバナーが出てますが、ヤフー動画で北斗の拳2アニメ版が無料で見られます。

試しに見てみたら、しだいに笑いがこみあげてきました。いくらなんでもあれは大袈裟。

昔、と言っても1960年代以降の話ですが、子供向けの娯楽番組を今見ると、キャラクターが真剣に闘っている時でもギャグとしか思えません。北斗の拳しかり、巨人の星しかり、宇宙刑事しかり。昔の東映や集英社の事業は私たちの世代に大きな影響を与えていると思います。

しかし、今はスタジオジブリで創作活動を続けている宮崎駿と高畑勇のふたりは、当時からしてエンターテイナーとしての哲学が、スポ魂系とはまるで違いました。

今朝、『アルプスの少女ハイジ』の一部を見たのですが、彼らの作品は、古さを感じさせません。絵的にも話的にも、デザインというものの重要さを思い知らされます。

ところで、コミュニケーションにおけるデザインもまた大変重要です。これは人生設計に関わってくるので、コミュニケーションにおけるデザイン力がなければどんな仕事でも話になりません。

ただし教養と交際の両方を私たちは学ばなければならないと思います。大雑把な分類かもしれませんが、教養主義はとかく内向的・厭世的・非社交的・非生産的に陥りやすい。

交際を重視する人は外向的・楽天的・現実的になれる傾向がもしかしたらあるかもしれません。しかし、交際面において教養の無さが露呈すると、社会の文化的水準は低下していきます。悪貨が良貨を駆逐するようになります。

教養と交際と、どちらに偏りすぎても悲惨な結果になると思うのです。わたしたちは、時には「書を捨てて街に出」ることもあれば、時には寝食を忘れて勉学に没頭することもある、そんな柔軟な知性と行動力を身につけなければならないのではないでしょうか。

オープンマインドとセキュリティの兼ね合いと言ってもいいかもしれません。自分のためにも他人のためにも、もっと生き方上手になりたいものです。

※この記事の初出はmixi日記です。

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2006/10/29

経済効果としてのSHINJOと「のだめ」

プロ野球もクラシック音楽も、マンネリ化すれば興行収入が落ちるに決まっている。

昨日聞いたニュースによれば、日ハム優勝が北海道にもたらした経済効果は222億円という。ここにおいて、日ハムを名実ともにリードしてきた男、SHINJOの存在は大きいに違いない。

さて、音大生たちが主人公の某人気マンガが先日TVドラマ化されたことは記憶に新しい。
そのTVドラマに主演する若手俳優たちの写真を、某クラシック音楽誌の表紙に使用したところ、やはり売り上げが伸びたという。

これは、SHINJOのパフォーマンスが日ハムにとっての付加価値(+α)であったのと同じようなことが言えるのではないか。
たしかに「クラシック音楽がテーマのラブコメ」というのは類例がなく、TV化されることによっていっそう人気を博し、クラシック音楽のCM効果を生んだことは注目に値する。

野球(あるいはクラシック)と一見関係ないかのようなパフォーマンスで、けっきょくは名実ともにファンの心を掴んでしまうことができるなら、それは彼らの勝利であるにはちがいない。

考えてみると、これまでクラシック音楽誌の表紙の人物写真には、クラシック演奏家の写真ばかりが使われてきた。

クラシック演奏家というのは、実力がものをいう世界である。顔の美醜や身体のスタイルの良し悪しは、コンクール出場者やアーティストとしての評価の基準には含まれない(はずである)。
彼らの理想は、芸術の創造にある。外観の美を競うのではない。

だが、考えてみればクラシック音楽だって、マネジメントがお客さんを集めて、アーティストの「芸」を見せ、感動させる事業(=商売)であるという点において、いわゆる「エンタテイメント」と変わりはない。では、クラシックは、TVドラマやJ-POP等の「エンタテイメント」と何が異なるのであろうか?

簡単に言えば、見た目の美しさや好感度の高さがものをいうタレント業界や、ノリが良く視覚的にも派手な音楽を大量に配信するJ-POP等とは異なる、一種「アカデミック」な価値観を基準とした「エンタテイメント」の世界、それがクラシック音楽ではなかろうか。少なくとも僕はそう理解してきた。

…しかし、どんな優れた才能の持ち主であっても、それでメシが食えるようにならなければ、プロとは言えないのであって……


(思考停止状態になったので、ここで筆をおきます。)

※この記事の初出はmixi日記です。

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2006/08/16

嗚呼戦争

毎年8月6日~15日の間は、TVで太平洋戦争関係のドキュメンタリー番組を見る機会が多くなるが、今年はネットTVや動画アップロード・サイトが増えたことも手伝って、過去の記録映像やドキュメンタリー番組をいやというほど見てしまった。

NHK朝の連ドラ『純情きらり』も戦争絡みの物語だが、これも何となく気になって見てしまう。

戦争について、文章でなく映像で多くのものを伝えられると、そのイメージの力に圧倒されてしまい、○○問題とかそういう議論に加わる気力が、ますますなくなってしまいそうである。
もともとあんまりないのに…。

言説よりも体験の方が重い。
そりゃそうだ。

※この記事の初出はmixi日記です。

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2006/02/10

Googleの正義と力

このニュースによれば、BMW.deが、Googleのウェブインデックスから削除されたという。BMW.deは、検索結果の表示順位を意図的に引き上げるテクニックを利用しており、それがGoogleのガイドラインに違反したそうな。

しかしその一方でこんなニュースもある。中国向けのGoogle.cnでは、チベットや人権などに関する情報へのアクセスができなくなっており、中国政府の抑圧と情報のコントロールプログラムに関与するものとして、Google社が各チベット団体から非難されているらしい。

今や世界中のユーザーに膨大な情報を提供する立場のGoogleが、自社の利益のために一国の偏った政策に加担するとはおそろしいことである。時の政府がマスメディアを牛耳り、国民の意識を操作しようとすることは、過去にも現在にも行われているではないか。

すでにインターネットは、新聞・ラジオ・テレビを凌駕する影響力を持ったメディアであり、ましてや一般公開の検索エンジンが、公正と中立を失ってはならないことは言うまでもない。

自社の利益追求に目をくらませて、企業の社会的責任(CSR)が全うされなければ、被害を蒙る者は罪もなき一般市民である。

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