2009/10/09

男の条件

その一 だんじて小手先の作品をえがくなかれ
     おのれの血のすべてをインクにせよ!

そのニ かりそめにも花の人気を追うなかれ
     土をおこして根をこやすべし

その三 いくばくかの地位を得ても未練をもつなかれ
     嵐と平和あれば嵐をえらぶべし

その四 いかなるときも負けて泣くなかれ
     負けて研究し勝利を生む母とすべし

その五 以上を守りぬいても自分のみ正しいと
     思いあがるなかれ 自分以外 すべて師とせよ!

(梶原一騎『男の条件』より)

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2009/09/26

梶原一騎『男の条件』を復刊しよう!

Photo

みなさん、梶原一騎×川崎のぼる『男の条件』復刊リクエスト投票にご協力ください!
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=11674
これは『巨人の星』と『まんが道』を足して2で割らないで暴走させたような世にも奇妙な作品です。
だけどこの漫画は絶対に面白いです。空前絶後です。人類の遺産として残すべきです!
よろしくお願いします!!

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2007/02/26

ドラえ問題

去年、「致命的に壊れたドラえもんを直すために、のび太がロボット工学の世界的な科学者になる」というストーリーの同人作品がヒットし、ネット上でも公開され、多くの人の共感を得たという出来事があった。

だが、あれは田嶋安恵という漫画家の方の創作であることが現在では明らかになっている。

「最終回ドラえもん」と銘打った田嶋氏のその作品は、その後著作権侵害として小学館からの通告と処分を受けたそうである(リンク先のWikipedia参照)。

田崎氏の同人作品におけるドラえもん観について、僕は最初から否定的であった。それについては拙ブログにまとめてあるのでお暇の方はご覧いただきたい。

僕としてもドラえもんの世界観が曲解・誤解・歪曲されることには断固反対なので、今回の田嶋氏と小学館の、著作権をめぐるやりとりも、小学館側の勝利に終わったようで、僕としてはほっとしているしだいである。

さて、あらゆる娯楽作品において、いわゆるスピンオフ作品が作られることについては僕は否定も肯定もしないが、田嶋氏の作品は、よく読めば原作の設定からあまりにもかけ離れたものであるにも関わらず、漫画家としてのプロフェッショナルな力量の発揮された構成のあまりの巧妙さに多くの人が感嘆し、その結果、「あれが本当の最終回なのではないか」と勘違いしてしまったのである。それが大きな問題であると、以前から僕には受け取られていたわけであるが、すでに著作権者からのストップがかかったとのことで、今後はブームも鎮静化していくことを願うばかりだ。

ちなみに、もしも「どうしてもドラえもんの最終回が読みたい」という人には、藤子・F・不二雄『ドラえもんプラス』第5巻(小学館)の最後に収録されたエピソード「45年後……」をお読みになることをおすすめしたい。ドラえもんシリーズの、特に時間的側面において、ある矛盾を孕みつつ終わりなきメビウスの輪を見るような循環構造に、ひとつの終止符的解答を作者自身が提示している点に注目したい。

作品の大ヒットによって、本来どこかで終わるはずの作品を終わることができなくなってしまった、作者自身が背追いこんだ難問に対する「とりあえず」の答えがここには示されている。すなわち、最終回を代替するエピソードと言えるのである。

それでは僕も眠くなってきたのでこのへんで筆を置くことにしたい。

※この記事の初出はmixi日記です。

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2007/02/15

昔のマンガ・アニメから話は飛んで

今、mixiの右上にもバナーが出てますが、ヤフー動画で北斗の拳2アニメ版が無料で見られます。

試しに見てみたら、しだいに笑いがこみあげてきました。いくらなんでもあれは大袈裟。

昔、と言っても1960年代以降の話ですが、子供向けの娯楽番組を今見ると、キャラクターが真剣に闘っている時でもギャグとしか思えません。北斗の拳しかり、巨人の星しかり、宇宙刑事しかり。昔の東映や集英社の事業は私たちの世代に大きな影響を与えていると思います。

しかし、今はスタジオジブリで創作活動を続けている宮崎駿と高畑勇のふたりは、当時からしてエンターテイナーとしての哲学が、スポ魂系とはまるで違いました。

今朝、『アルプスの少女ハイジ』の一部を見たのですが、彼らの作品は、古さを感じさせません。絵的にも話的にも、デザインというものの重要さを思い知らされます。

ところで、コミュニケーションにおけるデザインもまた大変重要です。これは人生設計に関わってくるので、コミュニケーションにおけるデザイン力がなければどんな仕事でも話になりません。

ただし教養と交際の両方を私たちは学ばなければならないと思います。大雑把な分類かもしれませんが、教養主義はとかく内向的・厭世的・非社交的・非生産的に陥りやすい。

交際を重視する人は外向的・楽天的・現実的になれる傾向がもしかしたらあるかもしれません。しかし、交際面において教養の無さが露呈すると、社会の文化的水準は低下していきます。悪貨が良貨を駆逐するようになります。

教養と交際と、どちらに偏りすぎても悲惨な結果になると思うのです。わたしたちは、時には「書を捨てて街に出」ることもあれば、時には寝食を忘れて勉学に没頭することもある、そんな柔軟な知性と行動力を身につけなければならないのではないでしょうか。

オープンマインドとセキュリティの兼ね合いと言ってもいいかもしれません。自分のためにも他人のためにも、もっと生き方上手になりたいものです。

※この記事の初出はmixi日記です。

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2006/10/29

経済効果としてのSHINJOと「のだめ」

プロ野球もクラシック音楽も、マンネリ化すれば興行収入が落ちるに決まっている。

昨日聞いたニュースによれば、日ハム優勝が北海道にもたらした経済効果は222億円という。ここにおいて、日ハムを名実ともにリードしてきた男、SHINJOの存在は大きいに違いない。

さて、音大生たちが主人公の某人気マンガが先日TVドラマ化されたことは記憶に新しい。
そのTVドラマに主演する若手俳優たちの写真を、某クラシック音楽誌の表紙に使用したところ、やはり売り上げが伸びたという。

これは、SHINJOのパフォーマンスが日ハムにとっての付加価値(+α)であったのと同じようなことが言えるのではないか。
たしかに「クラシック音楽がテーマのラブコメ」というのは類例がなく、TV化されることによっていっそう人気を博し、クラシック音楽のCM効果を生んだことは注目に値する。

野球(あるいはクラシック)と一見関係ないかのようなパフォーマンスで、けっきょくは名実ともにファンの心を掴んでしまうことができるなら、それは彼らの勝利であるにはちがいない。

考えてみると、これまでクラシック音楽誌の表紙の人物写真には、クラシック演奏家の写真ばかりが使われてきた。

クラシック演奏家というのは、実力がものをいう世界である。顔の美醜や身体のスタイルの良し悪しは、コンクール出場者やアーティストとしての評価の基準には含まれない(はずである)。
彼らの理想は、芸術の創造にある。外観の美を競うのではない。

だが、考えてみればクラシック音楽だって、マネジメントがお客さんを集めて、アーティストの「芸」を見せ、感動させる事業(=商売)であるという点において、いわゆる「エンタテイメント」と変わりはない。では、クラシックは、TVドラマやJ-POP等の「エンタテイメント」と何が異なるのであろうか?

簡単に言えば、見た目の美しさや好感度の高さがものをいうタレント業界や、ノリが良く視覚的にも派手な音楽を大量に配信するJ-POP等とは異なる、一種「アカデミック」な価値観を基準とした「エンタテイメント」の世界、それがクラシック音楽ではなかろうか。少なくとも僕はそう理解してきた。

…しかし、どんな優れた才能の持ち主であっても、それでメシが食えるようにならなければ、プロとは言えないのであって……


(思考停止状態になったので、ここで筆をおきます。)

※この記事の初出はmixi日記です。

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2006/02/19

非公式「最終話ドラえもん」に異議を呈す

最近ネット上に公開されて人気を博した『ドラえもん』最終話の偽作、もとい仮想作を読んだ。確かにこの「最終話」が、ドラ・ファンたちによって作られた非公式「最終話ドラえもん」の数々の中でもひときわ高い水準を示しているバージョンであることは私も認める。この「最終話」の作者は、原作者である藤子・F・不二雄の漫画語法に精通しており、ストーリーも巧みに考えられ、画力もパロディー漫画作品としては鑑賞に耐えるレベルにある。

だが、私はこの作品に涙することはなかった。むしろ笑ってしまったのである。そして最後には、根本的疑問を抱かざるを得なくなってしまった。その理由を以下に表してみたい。私の文章を読む方々も、現在上記リンク先で見られる「最終話ドラえもん」を読まれた上、一緒に考えていただければ幸いである。

まず、しずちゃんは「天才のび太」に必然的に惚れて結婚したのではなく、「ダメ人間のび太」に偶然的に惚れて結婚した、というのが原作の設定である。そしてその設定においてこそ、ドラえもんは漫画史上に永遠に残るマスコット――二人を結びつけた不思議なキューピッドたり得るのである。それでこそドラえもんの存在は報われるのである。

なぜなら「ダメ人間のび太」が「才女しずちゃん」と結婚するという、一種不可能なことを可能にした点が、ドラえもんという存在の、野比家に対する最大の貢献であり、そういう根本的なことを忘れたドラえもん作品には、かなりの疑問が残る。ここで試しに、この仮想の「最終話」の「続き」があるとすればいったいどうなるかを考えてみたい。

――ドラえもんを蘇生させることを目的として天才科学者になったのび太の成長は、知能指数は飛躍的に伸びたかもしれないが、「ドラえもんがいない人生など考えられない」という深く屈折した心の面では、小学生の頃から止まったままということになる。とすれば、この「最終話」の感動的(に見える)ラストシーンの次に待っているのは、むしろ「悲劇」だ。

すなわち、科学者としての本当の目的を果たしたのび太は、知能と体だけは大人のまま、心は小学生に戻って帰って来られなくなると想像する。 妻も、子供も、仕事もほったらかしにして、小学生の頃のようにドラえもんと遊ぶことだけが生き甲斐となり、自分の心の中に閉じこもった彼は、ほどなく廃人と化す。

もちろん、のび太の科学者としてのそれまでの業績は世界的に認められているし、妻しずちゃんはそうなった夫のび太のことを深く理解しているので、のび太が廃人と化したことは公にはされない(そのへんの情報の秘密は、総理大臣・出来杉の力で徹底的に守られる)。

しかし後に残されるのは、真相を知るのび太の家族や友人たちの、永遠の困惑のみだ。
その時こそ、ドラえもんは己が存在理由を失い、本当に壊れるであろう。 ――

原作漫画『ドラえもん』を愛する者のひとりとして、『ドラえもん』の本質、すなわち藤子・F・不二雄氏が小さな読者たちのためを想い、成し遂げた偉業が、今回のような非公式に作られた逸話によって歪められるのではないかと危惧するのは、私ひとりであろうか?

原作では、のび太はドラえもんと出会い、成長し、やがて完全に別れて(=ドラえもんが本当に未来に帰ってしまって)大人となり、結婚し、幸福な家庭を築くことがそれとなく示されている。だが、いつ、どうして、どのようにのび太とドラえもんが「完全に別れた」のかが、遂に描かれることがなかったのは、おそらく原作者自身が『ドラえもん』を「永遠に続く物語」と規定していたからである(原作者生前の公式見解に基づく推測)。

子供たちが明るく、夢を持って育つようにと願いながら漫画を描いた藤子・F・不二雄氏は、のび太とドラえもんの完全な別れを暗示しつつ明示しない高度な物語技法を駆使することで、「読者が子供から大人になるプロセスを永遠に助け続けるような存在になりたい」と、心中誓願していたのではなかろうか?だとすれば、まるで仏教の「菩薩」のような精神だ(と言ったらおおげさだ)。

小さな読者たちはやがて『ドラえもん』を卒業しなければならない。すなわち、「終わらない物語」に対して、ある段階でひとつの精神的区切りをつけるということが、「終わらない物語を読み終える」ということなのだ。

いつまでも『ドラえもん』にすがりつこうとする、大人になりきれない子供たち(あるいは子供のような大人たち)が増えることを原作者が望んでいたとは、私には到底思われない。しかしその一方で『ドラえもん』シリーズは、「永遠に続く」という命題のもとに支持されている。このような矛盾を抱え込んだ時点で、原作者は解決不能な難問を引き受けることになった。にもかかわらずそれと向き合い、死ぬ寸前まで努力し、格闘し続けたのが、藤子・F・不二雄氏の漫画家としての偉大さだったのではなかろうか。

これを機に、私も是非もう一度考え直してみたい。『ドラえもん』が本当に伝えようとしていたものは、何だったのかを。

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2004/04/02

ついに?芸大がマンガ作品を「買い上げ」

 東京芸術大学美術館が、同大学美術学部先端芸術表現科首席卒業生のマンガ作品を「買い上げ」た。
(関連記事)
http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20040325i405.htm
http://www.japandesign.ne.jp/EXPRESS/040331/002.php
 東京芸大には、首席卒業生の作品を「買い上げ」て所蔵する伝統的制度があることは私も前から知っていたが、マンガが芸大買い上げ作品の対象になったのはこれが史上初めてのことではなかろうか。
 気になるそのマンガは先端芸術表現科4年(ただしこの春から大学院に進学)、大久保亜夜子さんの『奇的』という作品で、4月には単行本として青林工藝舎から一般発売されるとのこと。彼女の卒業制作も、やはりマンガの要素を取り入れた現代アート作品らしい。
 同じ東京芸大出身の村上隆氏が、マンガ的表象を現代アートに取り入れ世界的名声を得ていることはすでに知れ渡っている。芸大がマンガを「芸術/アート」として認め、晴れて今回の「買い上げ」に至ったのも、やはり村上氏をはじめとする、マンガ的表象を用いた作品を制作するアーティストらの仕事が、ここ数年来、世に広く受け入れられ、認められてきたという素地抜きにしては考えられないと思うが、マンガ的表象を自作品に取り入れて現代絵画やオブジェとして表現するという手法は、アメリカのリキテンスタインなどの前例がすでに存在しないわけではない。そして見落としてはならないのは、そのリキテンスタインも村上氏も、マンガ的表象を多用することはあっても、コマ割りされ、ストーリーを持った本当のいわゆる「マンガ」を自ら描くということはまだしていないのではないか、という点である。つまり、彼らの作品が、マンガ自体ではなくマンガを利用した現代アートであるという点にこだわり続ける限り、「マンガ」を地で行く表現行為には永遠に到達し得ないわけである。
 今となってみれば村上作品よりも手塚治虫作品の方が人々の目には「純文学的」に映り、より「芸術」に近い価値を持った作品として改めて受け入れられる可能性すらあるのではなかろうか。もっとも、村上氏自身がそうしたサブカル/ピュアアートの既成の関係図式を根底から覆すような活動を行った張本人であるから、「村上らの現代ポップアートよりも手塚らの古典的マンガ作品の方がむしろ芸術的」という批評がこれから出てきたとしても、村上らにしてみればそれはむしろ彼らが意図していた(かもしれない)日本文化における保守的価値観による構図をひっくり返す一大プロジェクトが成功裡に終わったということの証になるのかもしれない…。
 で、今回の大久保さんはただ単にマンガ的表象を現代アート作品に取り入れるのみならず、自分自身がマンガ家のひとりとなり、その仕事が権威ある母校からも認められたという点が、村上隆の切り拓いたラディカルな表現可能性の地平を更に(あるいは、別方向に)一歩推し進めた革命的事件であると言ったらちょっとおおげさか。だが、世代的にも村上よりもずっと若いことも手伝って、生まれた頃からマンガがもっと身近な空気のような存在だったであろう大久保が自然体で成し遂げたひとつの功績とは言えまいか。
 肝心の大久保マンガそのものを読んでいないのでまだ何とも言えないが、私の推測では大久保マンガの方向性は村上隆や東浩紀らの路線に代表される「オタク的」なものというよりは、非商業主義的(アングラ?)マンガ雑誌「ガロ」を主な舞台として活躍したつげ義春らの私小説作家的な路線を継承した「文学的」なものなのではないかと思われるのだが、果たしてどうだろうか。
 この際、大久保亜夜子の『奇的』と綿矢りさの『蹴りたい背中』を比較論的に読んでみるというのも一興かもしれない。これは現代的な「女の子」の自然で洗練された知的感性の勝利である、と文句なしに言える現象なのだろうか。あるいは文壇やアカデミズムが時代に迎合しつつあるという、皮肉でジャーナリスティックな見方が当たっている面も本当にあるのだろうか。

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2004/03/13

「ぼく、ドラえもん。」発刊

 何を隠そう、私は「ドラえもん」が大好きである。おおよそ小学校の頃まで、私の人生は常にドラえもんと共にあったといって過言ではない。成人してのち、再びてんとう虫コミックス版のドラえもんを集めはじめたのだが、この作品に感心することしきりである。
 だが、藤子・F・不二雄亡き後のドラえもんには興味が持てなかった。未完の絶筆となった映画原作が藤子プロのスタッフたちの手で補完され、映画化されることによって、原作者亡き後も大長編ドラえもんの新作は他者の手によって毎年描かれ、映画化・劇場公開されている。原作者不在であるにもかかわらず新作が発表され続ける作品――マンガで他に例を挙げるとするならば、TVアニメの「サザエさん」がそうだ――はある意味、不滅の生命を持ったと言ってよい。それはそれで喜ぶべきことなのかもしれないが、アニメ版のドラえもん、特に藤子・F・不二雄亡き後の映画原作および劇場公開版ドラえもんには、すでに原作の絵のデッサン力やペンタッチや独特の「間」を持った雰囲気豊かなコマ運びなどの秀逸なセンスとテイストは失われている。のみならず、原作の表現がインテリジェントに抑制されていたからこそ笑えもし、泣けもした名話の数々が、劇場映画版では「いかにも」という感じの俗っぽい作為まるだしのキャラクターデザインと演出で改竄され、台無しにされてしまったのである。私の心を今でも捉え得る大長編ドラえもんの劇場公開版は、せいぜい「のび太の魔界大冒険」までであろう。それでも原作の味わいには遠く及ばない。それ以降の劇場公開版ドラえもんを高く評価することは残念ながら私にはできない。商業主義に侵されながら一人歩きしている現在の「ドラえもん」は、子供の心は騙せても、大人の心を揺さぶることはない。子供をしばし夢中にさせ、大人を改めて唸らせるものがあるからこそ、他のスタッフではなく藤子・F・不二雄自身による原作の「ドラえもん」を私は高く評価するのである。原作の持ち味を忠実に再現できるか、あるいはアニメ以外では表現不可能な、原作には無い持ち味を付け加えることができるかのどちらかでなければ、「ドラえもん」の新しいアニメ版をこれ以上作り続けることは、質的な次元で言ったら無駄な努力というものである。その意味では、原作も確かに優れていたが、TVアニメ版はTVアニメ版で独特のイメージを醸し出すことに成功したことによって国民的に不滅の存在となった「サザエさん」とは結果として対照的であると言える。
 しかし、最近刊行が開始された「ぼく、ドラえもん」(月2回発行のドラ専門誌)には食指を動かされざるを得なかった。これは創刊号からいろいろと付録がついているのだが、私が何よりもそそられたのは、てんとう虫コミックス全45巻未収録のドラえもん作品集である。原作の持ち味なくしてドラえもんの面白さはあり得ないと考える私にとっては、単行本未収録作品の刊行事業こそ、真の意味で原作者亡き後の「ドラえもん」を補完する企画であることは言うまでもない。という訳で書店を回った私であったが、その創刊号などどこにも見当たらない。レジの人に尋ねてみると、「発売前から予約いっぱいで売り切れの状態で、店頭に並ぶことはない」とのことであった。予約者しか入手できない。まるで私が中学生の頃の「ドラゴンクエスト」発売時を思い起こさせる現象である。しかし、ドラクエと違い、この「ぼくドラ」は一定期間が過ぎればようやく誰でも買えるようになるという代物ではないらしい。創刊号はとうに売り切れ、再発行されるにはされても1ヵ月ほど待たなければならない。単行本ではなく雑誌刊行物だとすれば、基本的に売り切れた時点で重版・再発行ということはない可能性の方が高い。私はその場で創刊号の再予約をし、更に数日後、イーエスブックスのコンビニ受け取りサービスを利用して第2号と第3号を注文した。そして今日、創刊号よりも先に第2号を手に入れたのである。
 例によって商業主義の匂い漂うフィギュアだのなんだのの空虚な玩具や、劇場公開版の新作の紹介にまつわるページは興味をひかなかったが、ドラえもんの世界を実証科学的に再検討する企画もののページは面白い。この線の企画で刊行されたドラえもん本は過去にも数多いが、擬似科学的なひみつ道具検証云々よりは、やはり原作の生まれた足跡を忠実にたどることに貢献する企画がもっとも面白く、読むに値する(その意味でも、既刊のドラえもん検証本の中で最も良いものは小学館文庫の「ド・ラ・カルト」である)。
 もちろん、単行本未収録作品は宝物だし、単行本収録済みの作品を初出の色刷りで再収録したページも泣ける。私は芸術にしても文学・哲学にしてもどちらかといえば「原典」を尊重し、その成立史の研究をも重視するポリシーなのであるが、マンガでも同じことが言える。
 だが、おそらく「ぼくドラ」と同時期にリニューアルされたと思われるドラえもんオフィシャルサイト「ドラえもんチャンネル」にはかなり脱帽した。このサイトはFlashの技術が最大限に発揮され、効果を上げているいい例のひとつだが、有り難いことに原作調の絵が素材として多く使われているのである。これが、どんなに技術的に優れたサイトでも、アニメ映画のキャラクターデザインを用いたのび太やドラえもんしか登場しないものだったら、ずいぶんがっかりさせられたことだろう。このサイトはそうした心配を見事にクリアしてくれただけでなく、原作のマンガそのものに適切な動きと音と色を付けて再現してWeb上で読ませてくれるという感激の企画まで実現してくれているのだ。これは、今までのつまらなかった公式サイトと、面白いがすぐ著作権にひっかかって潰されてしまいがちだった非公式サイトとの両者の良いところが止揚されたものであると言える。すなわち、原作の素材を、出版社側として著作権の問題をきちんとクリアして適所に使用しながら、在野のコアなファンが思いつきそうな面白い企画を、予算と技術を惜しげもなく投じて実現してくれているのである。すっかりハマってしまいそうな危険な魅力さえ感じさせるサイトであり、まさに「出来杉」と言ってよい。
 何はともあれ、専門誌とWebサイトの同時進行の特大ドラえもんプロジェクトを放ってくれた今年の小学館に拍手を送りたいと思う。

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