ふと気付いたことをメモしておきたい。世間では「クリエイター」という言葉がしばしば使われるが、その言葉にはたしてどれだけの実体があるのか。
参考になるかどうか分からないが、またちょっと飛躍的かもしれないが、宗教的側面からこれを考えてみれば「クリエイター」なる言葉の実体が崩壊していくような気がするので以下それについて述べてみたい。
実はあるとき、クリスチャン(カトリック)の方と会話をしていた。そのとき僕は自分の仕事について「クリエイター(のようになりたい)」と理想を語ったのであるが、話相手の彼はクリスチャンなので、「自分がクリエイター(=創造主)」になるというのは受け容れられない、と語ったのだった。
例えば、漫画家の手塚治虫などは、自身の創作活動について、「神の視点から描く」ことを認めていたし、じじつその道の「神様」あつかいされてしまったのであるが、手塚の本質はじっさい、汎神論的神秘主義者だったのかもしれない。また表向きではエンターテイナーとしてオカルトへの接近もあった。手塚の作家としての特異性が窺われる。
「神秘主義」は、基本的には「異端」の存在である。正統カトリックの信者から見れば、「自分が神=創造主になる」という思考は倣岸であり、不遜とも看做されよう*。
では、キリスト教と対比して、仏教はどうだろうか?仏教哲学においては、創造主や造物主といった類の存在は認められていない。また、「すべてのものに神とか魂といった精神的な実体が宿る」という汎神論的思考も教義的には斥けられる。これは南伝仏教やチベット仏教においては全く共通であるが、日本仏教においてはやや曖昧に成り果ててしまった側面である。
要するに、伝統的なキリスト教においても、仏教においても、自分が「クリエイター」であろうとするのが崇高な理想なのだ、とかいった価値観は存在しないものと言えるだろう。逆にそれは、エゴの膨張、堕落の兆しとして危険視されよう。
世俗では「クリエイター」というと、「天賦の才能を武器に世を渡る存在」「世間離れした超越的存在」というイメージがあり、自分もクリエイティブな仕事や趣味を持ちたいと思う人も多いだろう。しかし、そういう価値観は本当に意義があるのだろうか?
僕はそこで、世俗的価値観を裏面から照らし出すために、脱世間的価値観、すなわち宗教の価値観を引用してみた。すると、「クリエイター」という言葉には、真に世間離れした超越的価値など無いことに気付くのである。
*無論、キリスト教神秘主義や、タントラ仏教においては、自身を神と一体化させたり、即身成仏させたりする修行が伝承されており、それらは宗教の表向きの世界と併せて大変重要な奥深い世界であるが、ここでは話を単純化するために、これ以上は触れない。
※この記事の初出はmixi日記です。
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