2007/08/29

脱力/身体/他者

私は昔から脱力が下手で、これまで身体的にも精神的にもずいぶん損をしてきたような気がする。自分との対話においても、他人との会話においても、きわめて不器用な存在だったと思う。

これからは脱力を基本に、もっと賢く、かつヴァイタリティのある生き方を求めて行きたい。

頭脳/観念偏重の自己中心的な生き方からそろそろ脱皮して、もっと周囲の世界(他者・生活空間)に気を配り、深い意味での身体性(=固定観念に囚われない精神性)を重視した生き方ができるようになれば、もっと人生が楽になり、自分も他人も今よりほんの少し(この「ほんの少し」が大事)幸せになれるような気がする。

<身体×精神>は、比喩としての「魂」なのだ。自己と他者の交流の可能性を深層から切り拓くポイントは、このへんにあるのかもしれない。

※この記事はmixi日記に付けたコメントをもとに作成しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「脳に釣糸を垂らす」

自分が何者であるか、敢えて規定しないほどに心の緊張をほぐし、ゆるめる。

確か、創作中の宮崎駿が、「脳に釣糸を垂らす」と言っていたのを思い出す。

それはきっと、心身の緊張が適度にほぐれた状態だ。

生(せい)に釣糸を垂らす。ゆるやかにしずまりかえった生の奥底にまで釣糸が達したとき、突然ガッと喰らいついてくるものがあることがある。

それこそは己が探し求めていた、自他の真面目(しんめんもく)であるかもしれない。

何か手応えを得ようとすればするほど得られず、悪循環する。そんなとき、脳と心と身体全体を覆う緊張を、そっとゆるめてみる。

思ってもみなかったものが、得られるかもしれない。

脱力は力なり、である。

※この記事の初出はmixi日記です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/19

東洋と西洋――「霊性」のゆくえ

「カルマ」とか、「気」とか、現代科学や西洋哲学ではほとんど認められていないが、人間としてそういった東洋的な形而上学を感じる瞬間というものがある。

そういうものを、今流行のスピリチュアリズムでもなければ疑似科学でもない、確固たる宗教的伝統の中に位置づけて、自分の中で体系化したいものである。

東アジアや南アジア、東南アジアにはそういう偉大な宗教的伝統が今もあって、現地の人々はそれを当たり前のものとして生きているのだが、西洋化の進んだ多くの日本人にとっては、そうした伝統さえ遠い世界のように感じられてしまう。

しかし私たちは東洋人なのだから、東洋的伝統に対して、西洋人よりは近い場所にいるはずだし、それを素直に受け容れようと思えばけっこう受け容れられるのではないかと思う(日本人でありつつ西洋の思考に徹したいという信念を持っている人は別として)。

西洋近代の神秘主義や、流行のスピリチュアリズムは、西洋近代の知識人や現代大衆文化の消費者にとっては、あるいは必要なものだったかもしれないが、純粋に霊性的なるものへの気付きにとっては、本来迂回路にすぎないものだ。

現代思想と精神世界を連結させようとするのもあまり好きではない。西洋哲学は西洋哲学それ自体として、東洋哲学は東洋哲学それ自体として、それぞれの内部から純粋に湧き出ずるものによってそれぞれに旧い殻を打ち破り、究極点を目指すための新たな地平を切り拓いてゆくべきだと思う。

それは、両者が全く協力するなと言っているわけではなく、通俗的な方法論によって安易に結びつくべきではないと言っているのだ。

そして「霊性への迂回路」としての精神世界は、たまに「その道の初心者」が「気付き」を得るきっかけとなることもあるかもしれないが(恥ずかしながら私もそうであった)、あとはやはり大衆文化の中の特殊な一分野が消費される市場として機能し続けるにすぎないと思う。

※この記事はmixi日記に付けたコメントをもとに作成しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/26

最近、自分に言い聞かせていること

「単純になれ、単純になれ」
と三日三晩自分に言い聞かせていたら、しまいには
「バカになれ、バカになれ」
と念じるようになってしまいました(笑)。

なぜこんなことをしているのかというと、自分の悩み苦しみは、普段から物事を難しく考えすぎる傾向があるからだ、と知ったからです。

学問や芸術や仕事において複雑性に取り組むこと自体は重要なことですが、24時間、物事を、何でも難しく考える癖がつくとノイローゼになります。どうでもいいことが気になって忘れられなくなったりするなどの悩みが生じてきます。気がつけば、頭の中の歯車が狂い始めているのです。これは下手をすれば取り返しのつかないことになります。

「難しく考える必要のないことまで難しく考えるのは無意味である」
というのは、古今東西の賢者たちによって説かれていることです。これは普遍的真理でしょう。僕もそれにしたがって生きたいと思います。

すなわち、意識と存在における、単純性と複雑性という二極構造をよく理解して、偏りのない楽しい生き方――真の意味での「賢い生き方」を見つけることができればいいなあ、と思います。

※この記事の初出はmixi日記です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/06

「クリエイター」について

ふと気付いたことをメモしておきたい。世間では「クリエイター」という言葉がしばしば使われるが、その言葉にはたしてどれだけの実体があるのか。

参考になるかどうか分からないが、またちょっと飛躍的かもしれないが、宗教的側面からこれを考えてみれば「クリエイター」なる言葉の実体が崩壊していくような気がするので以下それについて述べてみたい。

実はあるとき、クリスチャン(カトリック)の方と会話をしていた。そのとき僕は自分の仕事について「クリエイター(のようになりたい)」と理想を語ったのであるが、話相手の彼はクリスチャンなので、「自分がクリエイター(=創造主)」になるというのは受け容れられない、と語ったのだった。

例えば、漫画家の手塚治虫などは、自身の創作活動について、「神の視点から描く」ことを認めていたし、じじつその道の「神様」あつかいされてしまったのであるが、手塚の本質はじっさい、汎神論的神秘主義者だったのかもしれない。また表向きではエンターテイナーとしてオカルトへの接近もあった。手塚の作家としての特異性が窺われる。

「神秘主義」は、基本的には「異端」の存在である。正統カトリックの信者から見れば、「自分が神=創造主になる」という思考は倣岸であり、不遜とも看做されよう*。

では、キリスト教と対比して、仏教はどうだろうか?仏教哲学においては、創造主や造物主といった類の存在は認められていない。また、「すべてのものに神とか魂といった精神的な実体が宿る」という汎神論的思考も教義的には斥けられる。これは南伝仏教やチベット仏教においては全く共通であるが、日本仏教においてはやや曖昧に成り果ててしまった側面である。

要するに、伝統的なキリスト教においても、仏教においても、自分が「クリエイター」であろうとするのが崇高な理想なのだ、とかいった価値観は存在しないものと言えるだろう。逆にそれは、エゴの膨張、堕落の兆しとして危険視されよう。

世俗では「クリエイター」というと、「天賦の才能を武器に世を渡る存在」「世間離れした超越的存在」というイメージがあり、自分もクリエイティブな仕事や趣味を持ちたいと思う人も多いだろう。しかし、そういう価値観は本当に意義があるのだろうか?

僕はそこで、世俗的価値観を裏面から照らし出すために、脱世間的価値観、すなわち宗教の価値観を引用してみた。すると、「クリエイター」という言葉には、真に世間離れした超越的価値など無いことに気付くのである。

*無論、キリスト教神秘主義や、タントラ仏教においては、自身を神と一体化させたり、即身成仏させたりする修行が伝承されており、それらは宗教の表向きの世界と併せて大変重要な奥深い世界であるが、ここでは話を単純化するために、これ以上は触れない。

※この記事の初出はmixi日記です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/15

昔のマンガ・アニメから話は飛んで

今、mixiの右上にもバナーが出てますが、ヤフー動画で北斗の拳2アニメ版が無料で見られます。

試しに見てみたら、しだいに笑いがこみあげてきました。いくらなんでもあれは大袈裟。

昔、と言っても1960年代以降の話ですが、子供向けの娯楽番組を今見ると、キャラクターが真剣に闘っている時でもギャグとしか思えません。北斗の拳しかり、巨人の星しかり、宇宙刑事しかり。昔の東映や集英社の事業は私たちの世代に大きな影響を与えていると思います。

しかし、今はスタジオジブリで創作活動を続けている宮崎駿と高畑勇のふたりは、当時からしてエンターテイナーとしての哲学が、スポ魂系とはまるで違いました。

今朝、『アルプスの少女ハイジ』の一部を見たのですが、彼らの作品は、古さを感じさせません。絵的にも話的にも、デザインというものの重要さを思い知らされます。

ところで、コミュニケーションにおけるデザインもまた大変重要です。これは人生設計に関わってくるので、コミュニケーションにおけるデザイン力がなければどんな仕事でも話になりません。

ただし教養と交際の両方を私たちは学ばなければならないと思います。大雑把な分類かもしれませんが、教養主義はとかく内向的・厭世的・非社交的・非生産的に陥りやすい。

交際を重視する人は外向的・楽天的・現実的になれる傾向がもしかしたらあるかもしれません。しかし、交際面において教養の無さが露呈すると、社会の文化的水準は低下していきます。悪貨が良貨を駆逐するようになります。

教養と交際と、どちらに偏りすぎても悲惨な結果になると思うのです。わたしたちは、時には「書を捨てて街に出」ることもあれば、時には寝食を忘れて勉学に没頭することもある、そんな柔軟な知性と行動力を身につけなければならないのではないでしょうか。

オープンマインドとセキュリティの兼ね合いと言ってもいいかもしれません。自分のためにも他人のためにも、もっと生き方上手になりたいものです。

※この記事の初出はmixi日記です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/24

そこに

そこに情熱と純心があり、そこに
智慧と慈悲がある限り、わたしは
人間を喪うことができない。わたしは
人間を信じないようにすることができない。

※この記事の初出はmixi日記です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)